RECRUITMENT
“かわいくない”相棒
彼女がカーボンブラックに出会ってから、かれこれ2年半がたつ。カーボンブラックは一般に「配合剤」と呼ばれる、炭素主体の微粒子だ。原料ゴムと混ぜ合わせることで、ゴムの強度や耐摩耗性を高める。その名の通り、色は黒い。誰もが目にするタイヤが黒いのは、カーボンブラックが黒いからだ。彼女は毎日、これを見て、触って、そして考えている。しかし、この相棒は、その開発において、もうどうしようもないほど彼女の思い通りにならない。「何度悔しい思いをさせられてきたことか。数え切れません……(笑)」。ここで、訂正する。相棒という言葉の前に、枕詞がつく。“かわいくない”相棒である。けれども、開発に携わる人間にとって、開発対象が“かわいくない”ほどに、好奇心がくすぐれられてしまうのも、また確かだ。現に彼女がそうであるように。
理系出身の両親のもとに生まれ、何をきっかけとしてでもなく理系の道に進んだ。大学院で『ブラックライトを当てると光る化合物』について研究したのも、特別なきっかけがあったわけではない。自分の知らない世界に足を踏み入れたかっただけだった。就職活動の際も同じ。「光るタイヤをつくりたい」と、何の根拠もなしに口にした。しかし、面接官の返答に驚かされた。「開発に関わる人間にとって一番大切なのは、夢とロマンを持ち続けることだよ」
「開発者は誰よりも現実的でなければなりません。だから正直、この人何をおかしなことを言ってるんだろうと思いました。まあ、私もおかしなことを言ったのですが(笑)」。とは言うものの、その面接官の言葉で、彼女は横浜ゴムへの入社を決意したのだった。
不安に勝る好奇心
カーボンブラックに出会ったのは、タイヤ第一材料部に配属された入社4年目の春。特殊用途タイヤの開発プロジェクトに関わったときだ。原料メーカーと共同で行うカーボンブラックの開発を、一手に任された。特殊用途タイヤは、農業用トラクターやレーシングカーなどに装着されるタイヤを指す。乗用車用タイヤに比べ、特に強度や耐摩耗性が求められるため、カーボンブラックの果たす役割は大きい。「配属されたばかりにもかかわらず、こんな重要なミッションを担うことに、不安はありました。でも、不安よりもワクワク感の方が大きかった。まだ踏み入れたことのない、自分の知らない世界。それを体験してみたかったんだと思います」
まずは、タイヤ開発の第一段階「基礎配合」に取り掛かる。合成ゴムやカーボンブラック、硫黄など、必要最低限の原料を混ぜて、原料サンプルをつくる。原料サンプルはさまざまな形状のものがあるが、主に厚さ2ミリ程度の、シート状のものを使う。それをラボスケールで評価し、強度や耐摩耗性等の数値を検証する。理想の数値が得られると、次のフェーズに移る。原料サンプルをもとにして、自社の製造工場でタイヤをつくり、評価を行う。これを「実用配合」と呼ぶ。彼女もその製造現場に立ち会った。
未知なる壁
巨大な成型機が大きな音を立てて動き出す。数分後、中からタイヤが姿をあらわした。黒い表面に白い湯気が立ち、タイヤ特有のゴムの匂いが運ばれてくる。関係者とともに固唾をのんで見守った。「不思議な感覚です。不安やら期待やら……。でも、自分が開発した原料が実際にタイヤとして形になるのは、言葉にならないくらい嬉しいものです」。その後、タイヤを実験室に運び入れ、性能評価を行う。
しかし、得られた数値は、目標をはるかに下回るものだった。原因はまるで分からない。原料サンプルの時点では上回っていた。それなのに、タイヤという形に変化するだけで、なぜ結果が異なってしまうのか。いろいろ試してみたが、答えは出ない。うまくいかない原因は、原料サンプルにあるのか。もしかしたら、実用配合の際の作業にあるのかもしれない。あるいは評価方法なのか──。理論と現実の間に立ちはだかる壁は高かった。
「大変でしたが、辛くはなかったです。むしろ、未知の事柄を追究していくことを楽しんでいたと思います。その後は、社内の製造部門や研究部門はもちろん、カーボンブラックの研究を行っている大学の教授など、あらゆる場所に足を運び、各方面のプロフェッショナルたちにアドバイスをもらいました」
道の途中で
言わずもがな、彼女の知らないことを知っている人は、数え切れないほどいた。やがて、彼女は答えにつながる糸口を掴む。カーボンブラック、合成ゴム、はたまた加硫の比率や、評価方法に至るまで。タイヤ開発に関連するあらゆる要素が原因であり、同時に答えでもあった。早速、カーボンブラックの製造段階に立ち返ってみる。原料メーカーと議論を重ねる。次なる評価に取り掛かる……。この繰り返し。
現時点で、このプロジェクトは「特殊用途タイヤの新規開発」という目的地に到着していない。実用配合を経て、自動車に装着して走行試験を行う段階まで進んだこともあったが、そこでもうまくいかないことばかりだった。「もう、うんざりしますよ。プロジェクトが始まった頃は、正直3年くらいで終わるだろうと思っていました。最近、上司にそのことを言ったら、『甘く見ちゃいけないよ』と一蹴されちゃいました。カーボンブラック、侮れません。10年かかってゴールにたどり着けないこともあるみたいです(笑)」。まだまだ道の途中というわけだ。
カーボンブラック。彼女はこれからも、このどうしようもないほど“かわいくない”相棒に振り回され、ときに壁にぶつかり、立ち止まり、悩むに違いない。それでも、ワクワクしていた。これから先、どんなことが待ち受けているのだろう、と楽しみで仕方がなかった。以上を踏まえると、もう一度訂正する必要がある。カーボンブラックは“かわいくない”相棒などではなかった。彼女にとって、それは、自分を知らない世界へ連れて行ってくれる“たよりがいのある”相棒だ。