RECRUITMENT
ひかえめな性格
行き先を掲げたボードをかすめるように、トラックが砂ぼこりを巻き上げながら通り過ぎる。かれこれ1時間ほどヒッチハイクを続けているが、一向に車が止まる気配がない。額ににじむ汗を拭きながら、それにしても、と彼は思う。自分にヒッチハイクをする度胸があったなんて思わなかったな。ましてや、地球の裏側で。
大学3年生のとき、ブラジルの大学に1年間留学した。留学して早々驚いたのが、現地の人の自己主張の強さだった。大学で講義では学生たちがどんどん発言して取り残されてしまう。どこに行っても、列に黙って並んでいると平気で割り込まれる。何事も自己主張をしなければ置いていかれる。そんな環境での生活は、ひかえめな性格の彼を変えた。それこそヒッチハイクをしながら、バックパック一つで南米各地を巡るまでに。「やりたいことをやってやろう」。自分をさらけ出すことを恐れなくなっていた。
日本に帰国後、就職活動に着手。PCやスマホの周辺機器を扱う会社で、製品企画の仕事に就く。製品企画といっても、ただ企画を立てて終わりではない。市場分析、企画立案、開発プロジェクトの管理、プロモーションなど、上流工程から下流工程まですべてに携わり、旗振り役を担う。楽な仕事ではないが、自分の手で製品を世の中に送り出すという手応えがあった。その手応えをもっと追求すべく、2018年5月に横浜ゴムへキャリア入社する。
タイムリミット
入社して2日目の朝、上司に呼び出された。今後の担当業務の話だった。製品企画として担当するのは、年間販売本数300万本を超える主力タイヤの次期商品。コンセプトはすでに決まっているが、2カ月後の企画会議までに企画を取りまとめ、立案しなくてはならない。「任せてもいいか」という上司の言葉に、彼は軽く頷いた。「正直、このときは『前職と商材は違うが何とかなるだろう』と思い込み、楽観視していました」
その思い込みは早々に打ち砕かれる。前職で扱っていた製品とは違って、タイヤはブランドや機能、性能、サイズラインナップなど決めるべきことが多岐にわたり、前職のノウハウがすべて通用するわけではなかった。
何より苦労したのは、社内とのコミュニケーション。「製品企画の仕事は、技術、生産、販売、販促など多くの部門と連携します。しかし、入社したばかりで関係者とのつながりはなく、どの部署の誰に問い合わせればいいか分からない。同僚や上司に相談したり、関係者を紹介してもらったりして、徐々につながりをつくっていきました」。
コミュニケーションの大切さを噛み締め、彼は社内のさまざまな関係者と関わりながらプロジェクトを進めていった。そして最終局面に差し掛かる。性能を維持した上で、いかにコストを下げるか──。ビジネスとして成り立たせる上で最も重要な部分だ。カレンダーは6月になろうとしていた。企画会議まで、残り1カ月。時間はない。梅雨のじめじめした空気は、なおのこと彼を焦らせた。
緊張
平塚製造所に足繁く通った。単に「コストを下げてほしい」と頼んでも、技術サイドは納得しない。「いくら下げるのか」「理由は何か」と具体的な説明を求められた。議論を重ねた末に、ようやく性能とコストが両立できる答えにたどり着く。営業サイドにも確認し、OKをもらった。
ここからさらに幅や扁平率が異なる90サイズものラインナップを検討し、それらが100万本単位で量産可能かを生産部門と調整する。「『恐れたら負けだ』と思っていました。経験が浅いからとひるんでも、前には進めない。とにかくアタックしていこうと」。自己主張をしなければ、周りに認めてもらえない。そのことを彼はよく分かっていた。
梅雨が明け、夏の日差しを感じるようになった。その日、彼は企画会議の場に立っていた。広い会議室には、役員や各部門の部門長など30名が集まっている。鋭い視線を受け止めながら、呼吸を整えて話し始めた。コンセプトの背景、売上見込み、サイズラインナップ……。この2カ月をすべてぶつけたプレゼンテーションは、1時間にも及んだ。「質疑応答では『そのコストダウンで全サイズの品質が担保できるのか?』など厳しい声をいただきました。技術サイドと企画サイドの間でも意見が飛び交い、議論が落ち着くまで緊張が続いたことを覚えています」
いつの日か
役員からの結論は「GO」だった。ただ、品質維持面での宿題も提示された。成果を出せた安堵と、100%承認されたわけではない悔しさを感じながら、彼は大会議室をあとにした。
その夜は部長に誘われ、横浜でささやかな祝杯を挙げた。2軒ほど飲み歩いたあと部長と別れ、社宅がある武蔵小杉駅で下車する。街灯に照らされた夜道を歩きながら、濃密な2カ月を思い返した。ゼロの状態から他部門と関係性を構築し、今日という日を迎えられたこと。これまでの経験を最大限生かせたこと。そして、この仕事に強いやりがいを感じたこと。「これからもこの会社でやっていけそうだなと、そのとき思いました」
時は流れ、3年後の2021年冬。彼はまた別の冬タイヤの製品企画を担当していた。市場調査のため訪れた販売店で目にしたのは、店頭に積まれた、あのとき情熱を注いだ新製品。コロナ禍での開発凍結などを経て、ようやく発売にこぎつけたのだ。やっとここまで来れた。気がつけば、タイヤの表面をそっと撫でていた。
販売店へのヒアリングを終えて店を出る。目の前の幹線道路を、トラックが轟音を立てて通り過ぎていく。南半球は今ごろ夏だろう。いつの日か、地球の裏側まで自分が企画したタイヤは届くだろうか。