2020 新井敏弘選手&大輝選手インタビュー (1)

2019年の全日本ラリー選手権、その最高峰となるJN-1クラスでチャンピオン争いを繰り広げた新井敏弘選手と大輝(ひろき)選手。ともに日本国内のみならず、世界のラリーを戦ってきている、日本を代表するラリードライバーとしてその名を知られる親子だ。当サイトでは2016年、シーズンイン前に親子対談企画をお届けしている。
【>> Toshi Arai×Hiroki Arai 親子対談】

あれから4年、今回は親子それぞれ別々にお話しをお聞きして、親子として、そしてライバルとして、あらためてお互いの思いや本音に迫る。


RALLY HOKKAIDOで意識した息子の存在

2019年、ディフェンディングチャンピオンとしてシーズンインを迎えた新井敏弘選手。初戦のスノーラリーを制した後も表彰台を確実に手中におさめてチャンピオン争いの主役となっていたが、第4戦の久万高原から息子である大輝選手がチームメイトとして参戦をスタートさせた。

「同じJN-1クラスに大輝を出しましたが、タイトル争いで自分のライバルになるとは思っていませんでした。全く眼中に無かったというわけではないけれど、あいつは必ずどこかで“やらかす”と思っていたからね。実際、2015年に大輝を全日本に出した時も、時に速さを見せたものの車を壊すことも多かったから」

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そう振り返った敏弘選手だが、父の期待を裏切って(?)大輝選手は久しぶりの全日本参戦初戦となった久万高原で圧倒的な速さを見せて優勝を飾った。続く第5戦のMONTREは地元で得意とする敏弘選手が制して“親父の威厳”を見せるも、第6戦の北海道ニセコは大輝選手が2勝目を手中におさめた。勝ち星では並んだ状態、ランキング争いが混沌とする中で、天王山と言われる第8戦のRALLY HOKKAIDOを迎えた。

「RALLY HOKKAIDOで大輝のマシンも、自分と同じVAB型にしました。それまで大輝が使っていた旧モデルのGRB型と基本的なキャラクターは同じだけれど、VAB型はトランクがあるからリアのトラクションがよりかかるとか車が重いという違いもあって、運転の仕方を変える必要がある。その辺をアジャスト出来るかどうか、そこがポイントだったけれど……」

戦いが幕を開けてみると、序盤から大輝選手がステージベストを次々に奪い、敏弘選手をじわじわと引き離して行った。大輝選手は構築したマージンを背景に主導権をキープ、マシンを壊すことなくフィニッシュまで運んで与えられるポイントの大きい一戦で3勝目を飾った。

「最初から自分と同じようなタイムを大輝が出してきて、しかもちょっとだけアイツのほうが速くて。こっちは負けて『チクショー!!』ってなったのと同時に、『これはヤバイな』とシリーズ争いで大輝を意識するようになりましたね」

こうして、徐々にチャンピオン争うは親子一騎討ちの様相を色濃くしていった2019年。グラベル(未舗装路)ラリーで大輝選手が2勝、そしてカレンダーは再びターマック(舗装路)ラリーへ戻り、第9戦のハイランドマスターズを迎えた。

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PROFILE =プロフィール=

新井敏弘 選手 =Toshihiro Arai=

1966年12月、群馬県生まれ。

新井敏弘 選手

群馬大学在学中にラリーをはじめ、1987年にデビュー。’90年に地区戦、’92年にはいすゞ・ジェミニを駆って全日本選手権(Bクラス)でチャンピオンを獲得。翌’93年に当時の最高峰だったCクラスへステップアップ、マシンは初代のスバル・インプレッサ(GC8型)で参戦。’97年にCクラスでもチャンピオンを獲得、同年10月30日から11月2日に開催されたRally Australliaで WRC(FIA世界ラリー選手権)に初参戦を果たした。

その後は本格的に世界選手権へ戦いの場を移し、2005年と’07年にP-WRC(FIAプロダクションカー世界ラリー選手権)のチャンピオンを獲得。2020年4月現在で、日本人ではただ一人となるFIA世界チャンピオンに2回輝いているドライバー。’11年からはヨコハマタイヤとのタッグでIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)/ERC(FIAヨーロッパラリー選手権)に参戦、’11年のIRCではプロダクションカップのチャンピオンを獲得。

’14年からは全日本選手権に復帰、ヨコハマタイヤを装着してタイトル争いの一角を占める。’15年、’18年、そして2年連続5回目の全日本タイトルを’19年に獲得した。



敏弘選手による、“ドライバー・新井大輝”評

大型の台風が接近する中でスタートした第9戦は、SS1を敏弘選手、SS2は大輝選手がステージベストを奪うデッドヒートを展開。二日目は濡れ落ち葉が路面を覆う難しいコンディションとなったが、大輝選手がトップを行く敏弘選手に1.8秒差まで肉薄。しかしその後、痛恨のスピンを喫して敏弘選手の背中は遠く離れて行った。そして最終戦として予定されていた福島は、台風災害の影響で開催が中止に。この結果、敏弘選手の2年連続チャンピオンでシーズンの幕は閉じた。

「もし福島が予定通りに開催されていたら、大輝にポイントランキングは逆転されていただろうね。でも、大輝らしいというか、アイツはそういう人生なんだよね(笑)。ラリーに限らないんだけれど、ここが一番大事っていうところで何かやらかす。大学受験とか、子どもの頃にもそういうことがあって、ホントにアホなんだよ(笑)」

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父親ならではの酷評(?)も飛び出したが、ラリードライバーとしての大輝選手を敏弘選手が続けてこう評する。

「全体的なラリーの組み立ては、以前よりもそれなりに出来るようになったと思います。あとは心理戦という面で、ライバルの鼻のへし折り方まで覚えやがったね(笑)。俺が心理的なライバルの追い詰め方を覚えたのは30歳を過ぎてからで、普通20代の小僧はそんなことを考えないでしょう」

もう少し、具体的に“ラリードライバー・新井大輝評”をお聞きしていこう。

「年齢の割りには速いドライバーだけれど、小生意気な奴だよね。強さの根本には図々しさもあって、それが精神的な強さに繋がっているんじゃないかな。他のトップドライバーと話していても動じていなくて、仲のよい親戚のおじさんと話しているようなノリだからね、あいつは(笑)」

速さについては一定の評価をした敏弘選手だが、では大輝選手に足りないものは何だろうか?

「それは、礼節だね。ドライバーとして以前に、人として足りないっていう感じだけれど。俺が親父じゃなくて他人のチームオーナーだったら、あいつを走らせようとは思わないかも。日本のラリーはプライベーターが大半だからそこの意識が希薄かもしれないけれど、海外のトップクラスを走ろうと思うのならチームの一員としての立ち居振る舞いや、車を用意してもらって走れることへの感謝が絶対に必要。その為には周りの人たちへの感謝の気持ちは常に持っていなければいけないし、上辺ではなく心の底からそう思っているのかは必ず態度や言葉に表れてくることを自覚するべきなんだよ」

こうした厳しい言葉が敏弘選手の口から出てくるのも、父として、ラリードライバーの大先輩として大輝選手を認め、期待していることの現れと言えるだろう。

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大輝選手からうけた“刺激”

親子揃って同じラリーという競技の、同じシリーズ、同じクラスでチャンピオンを争った2019年。敏弘選手にとっての大輝選手について、あらためてお聞きしてみよう。

「親子であって、会社では社長と社員であって、ラリーでは絶対に負けたくないライバルが大輝。ラリーについては誰にも負けたくないけれど、特に大輝には自分の手の内を完全に知られているからね。セッティングも戦略も何もかも知られているということは、勝ち負けの大部分がドライビングで決まるということ。だから負けると、心のダメージが大きくなるよね(笑)」

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最も負けたくないライバルだと位置づけた敏弘選手、では大輝選手に望むこととは?

「人として成長すること、それが一番かな。ラリーに限って言えば、海外を良いチームで走ってほしいね。そうすればアイツが日本からいなくなって、平和が戻ってくるし。大輝に負けながら、ラリーを続けるのは嫌だからね(笑)。でも、大輝の存在が良い刺激になっているのは事実。この歳になってドライビングを変えるなんていうのは、普通は無いことだから」

親子揃って、さらなる高みを目指して走り続ける敏弘選手と大輝選手。敏弘選手へのインタビュー、大輝選手と最も楽しかった思い出と最も強く叱ったことをお聞きして締めくくろう。

「楽しかったことねぇ……、自分が海外ラリー参戦のためにイギリスに住むことになって、大輝は小学校2年の春に移ったんだよね。それから2年半住んでいたけれど、あのころはまだ素直で可愛げもあって良かったかな(笑)。叱るのは毎日のことだけれど、なにかで他人の悪口を言っていたことがあって、こっぴどく叱ってやった。そういうことをしたら、必ず自分に返ってくるんだから。でも、それって今年の話なんだけれどね(笑)」

次のページでは、新井大輝選手のインタビューをお届けします。