2018 宝田ケンシロー×宝田芳浩 親子対談 (2)

ダートトライアル界で栄光の戦歴を誇る父・宝田芳浩さん、そのDNAを受け継ぐサラブレッドが宝田ケンシロー選手。高校卒業のタイミングでケンシロー選手は芳浩さんに自分もダートトライアルをやりたいと打ち明けたが、芳浩さんはすぐにはやらせなかったという。宝田親子対談の第2回では、ケンシロー選手の全日本選手権参戦の道のりを紐解いてみよう。


父の援助無しに始めたダートトライアル

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偉大なる父・芳浩さんの背中を見て、同じダートトライアルへのチャレンジを志したケンシロー選手。しかし、その思いに対してすぐにはやらせなかったという芳浩さんの真意とは?

「正直に言って、こいつ(ケンシロー選手)はクルマやダートトライアルは好きだろうけれど、ドライビングのセンスは無いと思っていたの。やるとなったら目標となる全日本選手権に参戦するまでに、どれだけのお金がかかるんだ、っていう現実的な話もあったしね」

モータースポーツの華やかさ、その背後にある厳しい現実も知り尽くしている芳浩さんだからこそ、“待った”をかけたということである。それに対してケンシロー選手は……。

「父は『それでもやりたかったら、俺は一切関与しない』と言ったので、自分としてもだったら勝手にやるわ、となったんです」

こうしてケンシロー選手は一切の父からの援助無しに、2008年ダートトライアルにデビュー。そんなケンシロー選手の戦いぶりを、芳浩さんは全く観ることが無かったという。

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「現場には行かなかったけれど、結果は見ていました。そして2年目、仲間に無理やり連れて行かれるような感じで初めて会場に行ったんです。仲間が家に迎えに来るって言うから、だったら仕方ないから行くか、みたいな感じでね。それが、こいつ(ケンシロー選手)がダートトライアルを始めて2年目だったかな」

ケンシロー選手のダートトライアル2年目となる2009年は、北海道のジュニアチャンピオンに輝いたシーズンだった。この時の走りを観た芳浩さんの感想は、「それなりに走ってはいるな」というものだったそうである。

ジュニアチャンピオンの翌年は地区戦のタイトルを獲得、着実なステップアップを果たしたケンシロー選手。全日本選手権に初参戦したのはデビュー2年目のこと、ただシリーズを追うのはまだ先のことで、このころは地元・スナガワのみのスポット参戦で一勝を目指していた。



父と同じ名門のカラーをまとうマシンで全日本選手権へ

ジュニアチャンピオンを獲得した2009年に全日本初参戦、この年はダイハツ・ストーリアを駆って本名の“宝田健四郎”で出場した。翌年から現在と同じ“宝田ケンシロー”にライセンスネームを変更、2011年にはダイハツ・ブーンにマシンをスイッチして2012年まで地元・スナガワの全日本戦にスポット参戦を重ねた。そして2013年、新たに発足したPNクラスにマツダ・デミオを投入、初めて津軽海峡を渡り丸和オートランド那須とサーキットパーク切谷内、そして地元のスナガワと3戦に出場した。

マシンは父と同じ名門・OKUYAMAカラーをまとっていたが、必然的に注目を集める中でケンシロー選手はどんな心境だったのだろうか?

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「父と同じOKUYAMAカラーに乗ることに対して、特別なプレッシャーはありませんでした。『奥山(正)社長、ありがとうございます!!』っていう感じでしたね(笑)」

ケンシロー選手の全日本参戦にあたっては、自らもお世話になったOKUYAMAの存在が大きいと芳浩さんは語る。

「奥山社長も、自分のスポンサーをケンシローにつけてくれて。2013年は流石にシリーズ全戦は無理で3戦に出場、そうしたら翌年は最低でも6戦には出てくれという話になって、それだったら『もうちょっと、いい成績を獲りたい』っていう欲が出てね(笑)」

こうして、全日本ダートトライアルドライバーとしての歩みを本格化させたケンシロー選手。チャンピオン獲得を目指して、親子二人三脚での挑戦が走り始めた。



次のページでは、ケンシロー選手と芳浩さん親子二人三脚の全貌に迫ります。