ADVANブランドが生まれた翌年、1979年に発足した「ADVAN RALLY TEAM」。タスカ・エンジニアリングを母体として、Red in BlackのADVANカラーをまとうマシンで国内外のラリーに参戦、幾多の栄冠を手中におさめてきている。このチームで1994年からADVANカラーのステアリングを握るのが奴田原文雄選手、モンテカルロラリーを日本人として初めて制するなど輝かしいキャリアを誇っている。
高知県出身の奴田原文雄選手は北海道の大学に進み、そこでラリーと出会った。デビューは1986年、7年目の1993年に三菱・ミラージュを駆りBクラスで初の全日本チャンピオンを獲得した。若かりし奴田原選手にとって、ADVANカラーとはどんな存在だったのだろうか。
「ラリーにおいてADVANカラーは、やはり憧れの存在ですね。圧倒的に速い車、強いチームという印象が強かったです。自分もそうでしたが、ラリーをやっている誰もが憧れる存在、それがADVANカラーですよね」
ADVANカラーに憧れを抱いていた若き奴田原選手だったが、1994年にADVAN RALLY TEAMの一員となり三菱・ランサーエボリューションⅡを駆って全日本選手権を戦うこととなった。それは、奴田原選手にとって突然の吉報だったという。
「自分がADVANカラーに乗ることになるにあたっては、特に前触れのようなものは無かったんです。GABカラーのミラージュで1993年にBクラスのチャンピオンを獲得して、その年のシーズンオフにタスカ・エンジニアリングの石黒邦夫代表から、『来年は(ADVANカラーの)ランサーに乗れ』と突然に言われて(笑)」
当時、既にラリー界でも速さと強さの象徴となっていたADVANカラー。そのステアリングを任されることになった奴田原選手、その当時の心境を振り返っていただこう。
「嬉しかったのはもちろんですが、その反面で『これは大変だな』という重圧のようなものもありました。自分がいざADVANカラーのドライバーになると、それまで自分が思っていた憧れの存在に自らがならなければいけないな、という思いがありましたね」
1994年からADVANカラーで戦ってきた奴田原選手だが、全日本のタイトル獲得は6年目の1999年とやや時間がかかった。もっともこれ以降、2000年も連覇を飾ると2001年こそ2位だったが、2002年から2006年まで5年連続チャンピオンという“黄金期”を築き上げていった。
「ADVANカラーで戦った最初の年、1994年は山内伸弥選手と一緒に戦いました。大ベテランとの2台体制でしたが、チームからは『絶対に勝てよ』というようなプレッシャーをかけられることもなく、じっくり育ててもらえる体制と環境を整えていただけたので、それがとても有り難かったですね」
奴田原選手の活躍は国内に留まらず、世界中のラリーシーンにわたっている。具体的にはPWRC(FIAプロダクションカー世界ラリー選手権)やAPRC(FIAアジア・パシフィック・ラリー選手権)、IRC(インターコンチネンタル・ラリーチャレンジ)などでも、ADVANカラーのマシンを駆ってきている。
「海外のラリーもADVANカラーで戦ってきていますが、このカラーリングは世界的に認知度が高いことを参戦の度に実感しました。そんなADVANカラーでヨコハマタイヤと長年にわたって一緒にラリーを戦っていることを、本当に嬉しく思っています。モータースポーツに情熱を傾け、単発的ではなく長年継続的に活動している企業というのは決して多くはないので、ADVANカラーを象徴とする活動の一端を担えていることは光栄ですね」
ADVANブランド誕生40周年となる2018年、奴田原選手は引き続き三菱・ランサーエボリューションⅩで全日本ラリー選手権の最高峰クラスに参戦する。
「近年はあと一歩でチャンピオンに届かないことが続いているのですが、もちろん今年も奪還を目指して全力を尽くします。2018年の全日本ラリー選手権は10戦のカレンダーとなり、昨年と比べてグラベル(非舗装路)ラリーの比率が増えました。ただ、昨年までとは開催地が異なっている大会も多く、シリーズ全体としては先が読めない感じもありますね。これまでの経験値も試されそうですが、自分たちには“引き出し”もたくさんあるので、チーム一丸となって勝利を目指して行きます!!」
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UPDATE : 06.Apr.2018