永遠の“職人” – 追悼 土屋春雄さん (1)

ヨコハマタイヤとともに、日本のレース史に燦然と輝く歴史を刻んでいる「つちやエンジニアリング」。この名門ガレージを創立して長く率いてきた土屋春雄さんが、去る4月11日に76年間の生涯に幕を閉じられた。謹んで哀悼の意を表し、過去のインタビューでお聞きしたお話しも織りまぜつつ、氏の歩みをご紹介していこう。


9坪の“掘っ建て小屋”から始まった栄光の歴史

土屋春雄さんが「つちやエンジニアリング」を興したのは、いまから時間を半世紀巻き戻した1971(昭和46)年のこと。名門を受け継いだ息子の武士さんが生まれる一年前のこと、その第一歩はごく小さなガレージだったという。

いまから15年前、2006年の冬。ヨコハマタイヤ・モータースポーツサイトでは、土屋春雄さんと武士さんに都内の飲食店へご足労いただき“親子対談インタビュー”を実施した。このときに春雄さんからお聞きしたお話しをあらためて再録、まずは「つちやエンジニアリング」の創立についてご紹介しよう。

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■土屋春雄 さん (2006年収録内容)

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「そもそもは、友達のレーシングカーをメンテナンスしてほしいって頼まれたことがキッカケなんだよね。自分もレースが好きだから、他に勤めながら友達の車を手掛けていこうと思って遊びで始めたの」

「6万円で9坪の“掘っ建て小屋”を用意したけれど、車を一台入れてまわりに工具なんかを置いたら、もういっぱいでね。それが1971年の話しなんだよ」

「こうしてメンテナンスした車で、友達がシーズンの中盤から富士スピードウェイのフレッシュマンレースに参戦したの。そうしたら優勝2回、準優勝を1回してシリーズチャンピオンになった。すると、こっちが意識しないうちにお客さんがついてきちゃってね(笑)。それで、翌年は手掛ける車が2台に増えたの。ちょうどその年(1972年)に、武士が生まれたんだよね」



息子が見て育った“父の背中”

春雄さんが手掛けた110型の日産・サニーは、全6戦のシリーズで輝かしい戦績をおさめた。これによって2台のメンテナンスを手掛けることとなり、忙しい日々を過ごすことになった春雄さん。まさに、そんな父の背中を見て育ったのが武士さんだが、春雄さんは当時のエピソードをひとつ教えてくれた。

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「作業場の“掘っ建て小屋”のすぐ隣には、8畳1間の住まいがあってね。車にマフラーもつけないでエンジンをかけたら、爆音を聞きつけた一歳にもならない武士が家から作業場まで這ってきて、立てかけてあった車のガラスにヨイショってつかまって立ち上がって、じっとこっちを見ていたんだよ」

「もうちょっと武士が大きくなった頃には、作業場の床にチョークで富士スピードウェイみたいなコースが書いてあってね。そこを武士が、足漕ぎ車で走っていたね」

「それが面白くてね、足漕ぎ車ってペダルを漕げばアクセルで、足を止めるとブレーキになるじゃない。武士の走りを見ていると、ダーッと加速してきたと思ったら、パンッってブレーキングしてフロントタイヤをロックさせて、ステアリングを切ってクルッとターンしているんだよ。4~5歳くらいの頃だったかなぁ」

後の国内トップレーシングドライバーの一人として活躍する、武士さんの幼少期のエピソード。「武士がレーシングドライバーになるなんて、思っていたわけないじゃない!!(笑)」とインタビューでは当時の思いを振り返ってくれた春雄さん、懐かしい想い出を語る笑顔が印象的であった。



“速く走る”ことだけを追いかけて

マイナーツーリングや、’80年代中盤から大人気を誇ったグループAこと全日本ツーリングカー選手権、さらにJTCC(全日本ツーリングカー選手権)と、日本のレースシーンに欠かせない存在となった「つちやエンジニアリング」。

ADVANカラーをまとうカローラ・レビンやカローラFX、コロナ・エクシヴやチェイサーの勇姿を鮮明に覚えているというモータースポーツファンも多いことだろう。これらのマシンを生み出した春雄さんは、根っからの“職人”として妥協を許さないマシン造りで、常に戦いを最前線で牽引していた。

そんな父の背中を見て育った息子の武士さんも、レーシングカートを経てドライバーとしてサーキットレースを志したのは自然な流れ。ただし、レース参戦にあたっては春雄さんからひとつ条件が出された。

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「武士には、楽をしてお金を稼ぐことを覚えてほしく無かったので、ウチで働いて参戦資金を溜めてレースをしろ、と言ったんだよ」

「1996年に1戦、そして1997年にはフル参戦で、ウチのチームからトヨタ・MR2で全日本GT選手権に参戦した。オレも武士も、とにかく『速く走る』ことだけを追いかけていたね」

「これは武士に限らないけれど、プロフェショナルである以上はレースを確実にやっていく必要がある。でも、競争なんだから攻めることを止めちゃいけない。だから、手を抜いてミスをするのは許さないけれど、攻めた結果のスピンなんかは『良くやった』と言ってあげるよ。攻める気持ち、それが一番大切だからね」

「あと、レースは『挫折』しちゃいけない、っていうのも大切だと思う。これは、決してドライバーに限った話じゃない。オレだって、『挫折』した瞬間にレースは止めるね」

1996年に全日本GT選手権に参戦を開始、2000年からはGT500クラスへとステップアップ。2005年、現在に通じるSUPER GTが発足するが、その初戦を制したのは「つちやエンジニアリング」が走らせる「ECLIPSE ADVAN スープラ」だった。

速く走ること、勝つことへの思いは、誰にも負けない強いものを抱き続けていた春雄さん。その思いを胸に旅立った春雄さんは、天国でも“職人ぶり”を見せて懐かしい仲間たちとレースをされていることだろう。

次のページでは、土屋春雄さんが生み出したレーシングマシンを写真と映像で振り返ります。