REVIVE ADVAN IN TOP FORMULA =前編=

1978年のADVANブランド誕生以来、Red in BlackのADVANカラーをまとうマシンを中心に、国内外のモータースポーツシーンで活躍を見せてきたヨコハマタイヤ。フォーミュラカーレースの世界においても、各地のサーキットを駆け抜ける勇姿は多くの人々の記憶に深く刻まれていることだろう。
そんなフォーミュラカーレースでの活躍を振り返る「REVIVE ADVAN IN TOP FORMULA」、前編は黎明期から近年までを一気にご紹介していこう。


国内トップフォーミュラへの挑戦とTEAM ADVANの発足

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時間を巻き戻すこといまから40年前の1980年、国内のトップフォーミュラカテゴリーであった全日本F2選手権にADVANを冠したレーシングタイヤが登場した。ヨコハマタイヤでは1974年から現在のSuper-FJに相当する全日本FJ1300選手権などにタイヤ供給を行っていたが、そこで得られた知見を基に開発を進め、国内トップフォーミュラへの挑戦がスタートしたのである。

そしてこの全日本F2選手権を戦うにあたっては、「TEAM ADVAN」が組織された。タイヤメーカーがワークス体制で戦いに臨むのは当時異例のことであり、高橋健二選手が駆る精悍なADVANカラーのマシンは注目を大いに集めた。さらに1981年には高橋国光選手が加入、同年は全日本F3選手権へのタイヤ供給も開始した。

そしてひとつのエポックメイキングとなったのが1982年、このシーズンからヨコハマタイヤは全日本F2選手権にラジアルレーシングタイヤを投入したのである。そして同年4月11日に富士スピードウェイで開催された第2戦で早々に初優勝を飾り、優れたポテンシャルを遺憾なく見せつけた。翌1983年には4月10日に決勝が行われた富士スピードウェイでの大会で高橋健二選手が優勝、高橋国光選手が準優勝を飾るADVANワン・ツー・フィニッシュを達成した。

1984年には参戦体制も拡大、ステファン・ヨハンソン選手、ジェフ・リース選手と契約。さらに和田孝夫選手にもタイヤ供給を開始、ヨハンソン選手はADVANカラーをまとう「アドバンマーチ・ホンダ」でシーズン3勝を飾った。

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ファンを魅了した快進撃、そして勝利への執念

1987年、コスト抑制を目的に2年前に国際規格として発足したF3000が国内にも導入されてシリーズが発足。高橋(国)選手と和田選手による「TEAM ADVAN」を中心に、多くのヨコハマタイヤユーザーが戦いに臨んだ。

1988年からはF3000にJAFの全日本選手権タイトルがかけられ、戦いはますます白熱。そして同年8月14日、静岡県の富士スピードウェイで開催された「RRC富士フォーミュラチャンピオンズレース」において「ADVAN ローラMF308」を駆る和田選手はトップチェッカーを受け、F3000での初優勝を手中におさめた。さらに同大会では高橋(国)選手も3位でフィニッシュ、ADVANが表彰台の主役となった。

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もうひとつ、和田選手といえばオールドファンの多くが記憶しているであろう一戦も忘れられない。それは1989年の全日本F3000選手権・第4戦、舞台は宮城県のスポーツランドSUGOであった。

7月30日に行われた決勝レースは、44,500人の大観衆が見守る中でスタート。51周のレースは出走23台に対して完走10台というサバイバルなものとなったが、和田選手はファステストラップも叩き出してトップを走り、戦いは大詰めを迎えた。

しかし痛恨のスピンを喫して、足回りに大きなダメージを受けてしまう。観ていた誰もが「これまでか……」と思ったであろうが、なんと和田選手は痛手を負ったマシンで走行を再開、最後は0.320秒差で後続を振り切って優勝を飾った。スタンドを埋めつくした大観衆から、惜しみない拍手と歓声が寄せられたのは言うまでもない歴史に残る一戦である。

“バブル”と称された好景気もあってモータースポーツの人気も高まる中、ADVANの活躍は広く知られるところとなった。国内トップフォーミュラの全日本F3000選手権で1992年以降は高橋(国)選手が引き続きADVANカラーのマシンを走らせ、1995年からは影山正美選手がその後を引き継いだ。1996年にフォーミュラ・ニッポンと装いを新たにしたシーズンもADVANカラーのマシンは参戦したが、翌年にタイヤワンメイク制が導入されたことで国内トップフォーミュラから撤退することとなった。

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