FUJI MINOR TOURING 2024

蘇る富士マイナーツーリング──
灼熱のFSWをADVANと
共に駆け抜けた男たち/後編

2024.9.27

1970年代から80年代初頭にかけて富士スピードウェイを舞台に、参戦するドライバーとマシン(メーカー)、そしてタイヤメーカーたちのそれぞれが凌ぎを削ってコンマ1秒を争うという、日本で最もコンペティティブなレースとして進化を遂げ、人気を博したマイナーツーリング。その伝説のツーリングカーレースが『FUJI MINOR TOURING 2024』として、灼熱の富士スピードウェイに帰ってきた。それは単に昔を懐かしむためだけのヒストリックカーレースではなく、歴戦の猛者たちがガチンコ勝負を繰り広げる、文字通りの“レーシング”そのものの光景として映った。灼熱の富士をADVANと共に駆け抜けた男たちの姿に迫る。/後編

Words:藤原よしお / Yoshio Fujiwara

Photography:安井宏充 / Hiromitsu Yasui

前編を読む

富士マイナーツーリング2024

憧れは永遠に色褪せず走り続ける──
その想いを、ADVANが支える。

2024年の富士スピードウェイに往年のマイナーツーリングを甦らせた『FUJI MINOR TOURING 2024』。なぜ、この「箱車」によるレースがこれほど多くのエントラントや観客を虜にするのか? 話は1970年に遡る。

この年からFIA(国際自動車連盟)は、エンジン、車体ともに改造範囲を広くしたグループ2規定をツーリングカーレースに施行する。それに合わせて、日本のツーリングカーレースもグループ2に基づく特殊ツーリングカー(TS=ツーリングスペシャル)で争われることとなり、1.3ℓ以上のスーパーツーリングと、1.3ℓ以下のマイナーツーリングの2レースが設けられた。

この両レースが注目を浴びるきっかけになったのが、1970年に富士スピードウェイを舞台にスタートし、日本のトップカテゴリーとして人気を博した2座席スポーツーカーレース、『富士グランチャンピオン・シリーズ(富士GC)』のサポートレースとして組み込まれたことだ。

まず人気を集めたのはスーパーツーリングで、高橋国光、長谷見昌弘、黒沢元治らを擁した日産ワークスのスカイラインGT-Rと、片山義美、従野孝司、岡本安弘、寺田陽次郎、武智俊憲らを擁したマツダ・ワークスのカペラ、サバンナRX-3との熾烈な争いは、メインのGCレース以上の盛り上がりを見せるようになった。

一方マイナーツーリングは、当初カローラ、パブリカのトヨタ勢が優勢だったが、日産ワークスがB110型サニーやチェリーを仕立てて本格参戦を開始。あわせてスポーツキットの開発にも取り組み、プライベーターへの支援も積極的に行うようになる。

そして1973年の第一次石油ショックを契機にワークスが撤退すると、スーパーツーリングが衰退していく一方で、マイナーツーリングは日産が東名自動車、日仏自動車、土屋エンジニアリング、尾川自動車、カーコーナー・メッカなどチューナーたちにパーツを供給し、ドライバー向けにドライビングレッスンを行うなど多角的な支援を行ったことが功を奏してエントリーが急増し、一躍日本を代表するツーリングカーレースの筆頭となった。

さらに1973年秋にはトヨタ・ワークスがエンジンをDOHC化したKP47型スターレットを投入し、シリーズを席巻。1975年からトムス、桑原自動車へ供給を開始し、サニー勢との激闘が始まったほか、1976年からはホンダ社内チームが製作したシビックも参戦を開始したほか、横浜タイヤもサプライヤーとして参入するようになり、自動車メーカー、チューナーだけでなく、タイヤ競争も激化。富士の長いストレートを舞台に、それぞれが凌ぎを削ってコンマ1秒を争うという、日本で最もコンペティティブなレースへと進化していった。

1982年の『富士マスターズ250キロ』での萩原光(No.24 ADVAN東名サニー)と和田孝夫(No.25 ADVANつちやサニー)の“ADVANのエース同士”によるチャンピオンの座を賭けたバトルは今も多くのレースファンの間での語り草となっている。(写真提供:三栄)

その長いマイナーツーリングの歴史の中でもハイライトと言えるレースが、ホモロゲーションが切れるB110型サニー最後のレースとなった1982年10月24日の『富士マスターズ250キロ』だろう。このレースでチャンピオンを争っていたのはNo.24 ADVAN東名サニーの萩原光と、No.25 ADVANつちやサニーの和田孝夫。ADVANのエース同士、どちらか先でゴールした方がシリーズチャンピオンに輝くというレースで、両者はスリップストリームを使い合いながら激しい集団での3位争いを展開する。そして迎えたファイナルラップの最終コーナー、4位につけていた和田はギリギリで萩原のスリップから抜け出し、わずか0.01秒差で3位を奪取。見事チャンピオンの座を射止めたのである。

使用車両が310型サニーへと移行した翌年以降も、マイナーツーリングは毎戦多数の予選落ちが出るほどの盛況ぶりを見せ、日本独自の究極のハコレースとしての地位を確立したが、1989年いっぱいで富士GCシリーズが終了。それに伴い隆盛を誇ったマイナーツーリングも、その長い歴史を閉じることとなった。

しかしながら、そこでマイナーツーリングの火が消えたわけではなかった。2004年、JCCAクラシックカー・フェスティバルにおいて、往年のTS仕様に仕立てられたB310サニー、KP61スターレットを対象としたTS CUPとして復活。その後、ニスモ・フェスティバルの中でもエキシビションレースとして行われたことで、確固たる地位を確立。年々その参加台数も増大し、今や日本で最もコンペティティブなヒストリックカーレースとして多くの支持を集める存在となったのだ。

ADVAN A005スリックのフロント:210/500R13、リヤ:230/500R13はTSレースのために作られていると言っても過言ではない存在。TSレースに参戦する猛者たちは「ADVANがあるからレースが出来る」と口々に感謝の言葉を述べていたのが印象的だった。“本気のクラシックレース”という文化をADVANは文字通り足元から支えているのだと実感。

そこで忘れてはならないのが、TSレースを足元で支え続けているADVANの存在だ。現在唯一のタイヤサプライヤーとして活動する意義を、横浜ゴム株式会社タイヤ消費財製品企画部モータースポーツグループの佐藤巧はこう話す。

「おかげさまで根強いファンが国内には多くいらっしゃいます。YOKOHAMA、そしてADVANブランドを好きでいてくださるファンの皆さんを大切にする、という意味でもヒストリックカーのレースは私たちの大事なカテゴリーの1つです。特にこの13インチのレーシングタイヤは弊社独自のサイズラインナップ。その価値をわかってくださる層がこのカテゴリーには大勢いるというのが大切なことで、その結果としてプレミアムブランドとしてのADVANの価値そのものを高めていける……ということにも繋がると考えています」

佐藤がさらにYOKOHAMA/ADVAN独自のTSレースに向けた取り組みを説明する。

「このタイヤはTSレース専用で、それ以外のレースでは使用されていません。元々TSレース用レーシングタイヤはバイアス構造を採用していましたが、近年のバイアスタイヤの需要減から、バイアスタイヤの生産が出来なくなってしまいました。それでもTSレースを足元から支えたいと考えた我々は、ラジアル構造でTSレース用のレーシングタイヤの開発に取り組みました。そのタイヤが今、皆様の足元を支えるADVANレーシングタイヤです。
TSレース用のタイヤは静岡県の三島工場内のレーシングタイヤ専用ラインで生産をしています。SUPER GT、SUPER FORMULA向けのレーシングタイヤも同工場で生産されています。コンペティション向け開発から、コントロールタイヤの供給まで、世界各国のモータースポーツを足元から支えるレーシングタイヤは全て三島工場レースラインで生産を行っています」

萩原光に憧れ、その憧れの存在の原点とも呼ぶべき“ADNAN東名サニー”を見事に再現して現代の『FUJI MINOR TOURING 2024』に参戦する布浦哲哉(No.24 ADVAN東名サニー)。

今回の『FUJI MINOR TOURING 2024』には、そうしたADVANとマイナーツーリングとの関係に一際強い思いを寄せるエントラントがいた。それがNo.24の、その名も“ADNAN東名サニー”で参戦していた布浦哲哉だ。

実は布浦のADVANカラーに彩られたB110サニーは、2022年に富士スピードウェイで行われたレース形式の走行会でアクシデントに巻き込まれ、大きなダメージを受けてしまった。それをオーナー自ら懸命に修復を続け、再起不能とまで思われていたマシンを再びグリッドに付けることに成功したのだ。

「昨日の夜10時半まで作業してやっと完成しました。少し前に形になって、でも走らせたらダメで、改めてファイナルギヤを富士用にしてテストしたらやっと問題がわかってショックを換えたりと、なんだかんだやって、結局昨日の夜に全部終わったって感じです。とにかくちゃんと直すのが大変でした。ボディはフレームにまでダメージが及んでいて、箱変えするようなレベルだったんですが、自分はこのクルマ自体に思い入れがあるので。そういう意味では、24号車だから諦めずに頑張れたってのはありますね」

そう、ゼッケンナンバーの通り、布浦のB110サニーは1982年のマイナーツーリングで同じADVANワークスの和田孝夫と激しいチャンピオン争いを繰り広げた、あの萩原光のマシンをモチーフに再現したものだ。

「1970年生まれなので、正直当時のTSは見ていません。でも光さんがウォルターウルフ・カラーのF2で出ているレースをテレビで見て、なんてカッコいいんだとファンになって、やがてその原点がサニーだということを知ったんです。それで自分でTSのレースを始めるにあたって、やるなら光さんのマシンにしようと最初から決めていました」

そこで布浦は萩原光の弟の萩原任、横浜ゴム、東名パワードに出向き、萩原車を再現するための正式な許可まで取り付けた。その際、任からはこんなことを言われたという。

「光さんの完全なコピーにするべきか悩んでいたら、任さんが“当時のままに作っても遅かったらファンがガッカリするだろうから、外見だけ当時と同じにして中身は勝てるクルマにした方がいいんじゃないか”ってアドバイスをくれまして。もちろんプライベーターなので限界はありますが、できる範囲で作りました」

その熱意が通じて、ヘルメットカラーも萩原光と同じカラーリングにした方がいいと許可をもらい、今ではレーシングスーツやシューズを含めて、公認のフルコンプリート状態となっている。

「まさか、ここまで繋がるとは思っていませんでした。でも光さんの24号車と、和田さんの25号車があってのマイナーツーリングというか、クルマ、ドライバーを含めたカッコ良さがあの時代にはあったと思うんです」

そうして憧れのレーサーになりきり、擬似体験をするというのもヒストリックカーレースの醍醐味の1つと言える。そして、ADVANカラーの24号車が走ることで、当時を知る人にも、知らない世代の人にも、あの熱いマイナーツーリングの時代を呼び起こす、重要な役割を果たしているのは間違いない。

こうしてたった1日ではあるものの、多くの人々の想いが詰まった『FUJI MINOR TOURING 2024』は大盛況のうちに幕を閉じた。エキゾーストノートが消え、少しばかり興奮がおさまったパドックで、イベントを主催したテクニカルサービスインフィニティー代表の大野孝司は安堵の表情を浮かべ、夢のような富士での1日をこう振り返った。

「音も違うし、長いストレートの醍醐味もあるし、やっぱマイナーツーリングは富士だよなって、みんな言ってくれた。今日はトップグループも、セカンドグループの争いも良かった。しかもあの速度で3〜4台が並んで争っても、誰も当たらない。すごいでしょう? 特にゴールの瞬間は痺れましたね。トップから竹内さんまでほとんど差がないんだから。これだよ!って感じでした。これで皆さんにも富士スピードウェイでマイナーツーリングをやる意味をわかってもらえたんじゃないかな? だから来年も、さらに頑張りますよ!」

(文中敬称略)

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