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“世界のKatsu Kubota”が語る
“頂点”と“原点”への想い / 前篇

2022.8.30

久保田克昭は日本を代表するジェントルマンレーサーである。彼はヒストリックレースの最高峰であるF1モナコ・ヒストリックGPを制し、クラシック・グループCのレースなどでもこれまで数々の栄光を手にしてきた。そんな世界の“頂点”を極めた男はしかし、同時にその“原点”に対しても変わらぬ熱い想いで挑み続けている。F1マシンからTSサニーまで――常に“速く走る”ことをストイックに追い求め、そこに真っ直ぐな情熱を注いできた男の言葉を聞く。/ 前篇

Words:藤原よしお / Yoshio Fujiwara
Photography:安井宏充 / Hiromitsu Yasui

久保田克昭

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“速く走る”ことへの情熱を忘れない
ヒストリックレースへの飽くなき挑戦

真夏の筑波サーキット。

日本を代表するクラシックカーレース、JCCA筑波ミーティング・サマーのパドックには、早朝から色とりどりのクラシックレーサーたちが集っていた。

その中に1台、一際目立つターコイズブルーに彩られ、足元にADVANのスリックタイヤを履いた日産B110サニーが、荒々しいエキゾーストノートを奏でてウォームアップをしていた。

コックピットに収まるのは久保田克昭。コンピューターネットワーク関連機器の開発、販売などを手掛けるプラネックス・コミュニケーションズのファウンダー兼代表取締役会長にして、ヨーロッパでは“Katsu Kubota”の愛称で知られる日本を代表するジェントルマンレーサーの1人である。

「あれは2002年のことですね。知人に誘われてモナコ・ヒストリックGPを観に行ったんです。あのF1と同じモナコの市街地コースを舞台に往年のヒストリックF1が本気でレースをしている光景を見ていて“よし、いつか俺が表彰台のてっぺんに立って君が代を流そう”って思ったんです」

そこからの動きは早かった。手始めに当時富士スピードウェイで行われていたGC-21に挑戦を始めた久保田は、その後ポルシェ・カレラ・カップ・ジャパンや、JAF-F4選手権にも挑戦。2006年には1969年式のロータス49Bを駆ってモナコ・ヒストリックGPに初参戦を果たし、2008年には全日本F3選手権へとステップアップ。40代のルーキードライバーとして話題になった。

JCCA(ジャパン・クラシックカー・アソシエーション)が主催する筑波ミーティングFレースF2クラスに1973年式の日産サニー(B110)で参戦。マシンメンテナンスはハナシマレーシングの花島広樹が担う。タイヤはYOKOHAMA / ADVANのレースタイヤを履く。

その後、ヨーロッパで本格的にヒストリックF1レースへの参戦を開始した久保田は、2009年のマスターズ・ヒストリック・ドニントン戦でマーチ761をドライブし初優勝。マシンをウィリアムズFW07C にして挑戦した2010年のヒストリック・フォーミュラ・ワンでは、モンツァで日本人初の総合優勝をしたほか、ディジョン、ポルマティオでも優勝し、シリーズ3位に輝いた。さらに同時に参戦していたヒストリック・フォーミュラ2シリーズではマーチ712で12戦中8勝を挙げる大活躍でシリーズチャンピオンに輝くなど、ヒストリックレース界のトップドライバーとして頭角を表すようになる。

そして2014年に行われた第9回モナコ・ヒストリックGP。愛機ロータス72で1966年から72年までのF1マシンを対象とするセリエEに出場した久保田は並み居る強豪(元プロドライバーも含む)を相手にポールポジションを獲得。決勝ではファステストラップも記録する完璧な走りを見せ優勝を果たす。初志貫徹にして有言実行――ポディウムの頂点で君が代を流すという夢を見事に叶えたのだ。

10年来の夢を叶え、2014年に日本人として初となるモナコのポディウムの頂点に立った久保田克昭。マシンは1973年にかのロニー・ピーターソンが駆りシーズン4勝を挙げたロータス72(Car#6)。ヒストリックとはいえ当時のマシン性能をフルに引き出した本気のドッグファイトを繰り広げて勝ち取った栄誉である。久保田は2016年のF1メキシコGPのサポートレースであるマスターズF1をはじめ数々のレースで優勝を飾るなど、ヒストリックF1界では速さとクレバーさとを持ち合わせた実力者としてその名を轟かせている。(写真:藤原よしお)

そんな“世界の頂点”を極めた久保田が大事にしているのが、ヨーロッパでのレース活動など忙しいスケジュールを縫って参戦を続けているJCCAのFレースだ。

猛暑日の茹だるような暑さに見舞われた筑波のパドック。自身がメンテナンスするマシンの傍らで久保田の様子を見守るのは、ハナシマレーシングの花島広樹である。F3をはじめとする様々なカテゴリーでその名を知らない者はいないという日本を代表する名チューナーだ。2人の出会いは20年前、久保田が富士スピードウェイで行われていたGC-21シリーズに参戦を始めた頃のことだった。

「当時花島さんは名門のトリイレーシングにいて、僕のクルマのエンジンの面倒を診てくれていたんです。ある日のこと、“花島さん、最終コーナー全開でした!”って言ったら、ロガーを見ながら“いや(アクセルペダルから足が)剥がれてます”って(笑)。そこからの付き合いですよ」

20年来の信頼関係を築く久保田と花島。ハナシマレーシングのスタッフも含めて、そこに共通の熱い想いがあるからこそ、この“チーム”はこれまで世界中のさまざまなヒストリックレース・シーンで多くの栄光を掴み取ることができたのだという。「信頼あってこそ思い切りアクセルを踏み抜ける」と久保田。これからもチーム一丸となって素晴らしいレースを見せてくれることだろう。

花島の腕はもちろん、実直な人柄にも惹かれた久保田は、JAF-F4の頃からエンジンだけでなく車体のメンテナンス、セッティングも依頼するようになり、その関係は花島が独立し静岡県清水市で自らの工場を立ち上げてからもずっと続いている。もちろん、件のモナコの優勝も花島のサポートがあってのものだ。

「JCCAのFレースに出ているのは、カテゴリーを問わず常にレース勘を養い、いろいろなモノを吸収したいという思いもありますが、やはり花島さんが作ったTSマシンでレースしたい、花島さんのチューンしたA型エンジンに乗りたい、って気持ちが何より強いからですね」

実は花島は70年代から80年代にかけ富士グランチャンピオン・シリーズのサポートレースとして開催されたTS(特殊ツーリングカーレース)に憧れ、当時のトップ・コンテンダーの1つであったトリイレーシングの門を叩いてメカニックになったという経歴の持ち主。ターコイズブルーのサニーは、コースの外でTSに憧れていた男と、メカニックとして携わっていた男の思いが時空を超えて結実した1台でもあるのだ。

「とはいえエンジンは仮のモノで、本命のハナシマ・エンジンはまだ完成していないのだけれど……」と言いつつ、予選で久保田は1分4秒973を記録。トップにはわずか0.7秒及ばなかったもののクラス2位、総合5位のグリッドを確保した。

迎えた決勝レース。手練揃いの中、スタートからトップを激しく追う久保田は、1分4秒075のベストラップを記録したものの、惜しくもトップに3秒ほど及ばず、クラス2位、総合5位でレースを終えた。しかしながら、その顔には力を出し切って走った満足感が浮かんでいるように見えた。

F1やグループCなど、ヒストリック/クラシックカーレース界の“頂点”で世界中の腕利きたちとトップ争いを演じる久保田が、あえて“原点”というべきサニーでのツーリングカーレースに出場するのには、もう1つこんな理由がある。

「それはYOKOHAMA/ADVANタイヤの存在ですよ。往年のTSでの高橋健二さん、萩原光さん、和田孝夫さんらの走りと共に、赤と黒のアドバンカラーって僕たちの世代には1つの憧れであり、特別な意味を持ったモノですからね。しかも、スーパーフォーミュラやスーパーGTのようなトップカテゴリーだけじゃなく、ヒストリックカーレースにもこうしてレースタイヤが供給されていることは、日本のユーザーには何よりも有難いことだと思います。YOKOHAMA/ADVANの存在は、そういう意味でも特別なんです」

長年世界のヒストリックカーレースに出場し、彼の地の自動車文化の奥深さを身をもって知っているからこそ、安定したタイヤ供給がジェントルマンレーサー、ひいてはヒストリック/クラシックカー文化そのものを支えるという意味でもいかに重要なことであるかを久保田は力説する。そしてこう付け加えた。

「ヒストリックとはいえ常に極限の領域にあるF1やグループCは何よりチャレンジングだけれど、なんとかコンマ1秒でも速く走りたい、トップでゴールしたいというより純粋な想いで走るサニーのレースも、それに勝るとも劣らないほど楽しいし、学ぶべきものはたくさんある。今日はスタートで少しだけ失敗してしまったから、どうにか挽回しようとプッシュしたけれど届かなかった。“当時の萩原さんや和田さんも、こうやってワンチャンを狙っていたのだろうか?” なんて思いながら走りましたよ。それもYOKOHAMA/ADVANタイヤを履いているからこそ、でしょうね」

世界の頂点を極めても原点の楽しさ、何より“速く走る”ことへの情熱を忘れない。滴る汗を拭いながら笑う久保田の表情はまさに、少年のような純粋な輝きに満ちていた。

(後編へ続く)

久保田克昭

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