Get Back ADVAN

“不屈の魂”をもつレーサー。
和田孝夫とADVANの物語。/ 後編

2022.1.7

1979年のF2での生命にかかわる大アクシデントを乗り越え、マイナーツーリングでの優勝をきっかけに再び第一線のトップドライバーとして復活した和田孝夫。F3000や富士グランチャンピオン・シリーズなどのビッグレースで、記録にも何より記憶にも残る名レースを見せてくれたのだった。それはまさに、“不屈の魂”そのものの走りだった。

Words:藤原よしお / Yoshio Fujiwara Photography:安井宏充 / Hiromitsu Yasui

前編を読む

和田孝夫 / 後編

ADVAN土屋サニーで復活を遂げ
和田孝夫の第2のレース人生がはじまった。

「110のレースがあったから今があると思っています」と本人も言う通り、1981年、1982年のサニーでのマイナーツーリングの2年間が、和田のレース人生の第2章の幕開けだったと言えるかもしれない。

「1983年からF2 とGC(富士グランチャンピオン・シリーズ)に戻れたのも横浜ゴムの水野さんのおかげです。ADVANカラーの国さん(高橋国光)は25番で、健二(高橋健二)さんは24番。26番の僕は2軍チームみたいな感じでしたけど、とにかく来たタイヤで一生懸命、全開で走るだけでした」

そのひたむきな姿勢と努力は、重山和徳率いるPAL SPORTSに加入してから花開くことになる。

現役時代は高橋健二らとよく食事に訪れたという国道246号沿いの「ドライブイン佐の川」にて。「僕はタバコをやらなかったから奥の座敷が定位置でした」と当時を振り返る。ここで高橋と待ち合わせをしてから富士スピードウェイに入ることも多かったという。

1988年5月15日、富士グランチャンピオン・シリーズ第3戦、富士グランスピードレース。ローラT88S “マッドハウス・スペシャル”でエントリーした和田は、小雨の降る中、予選4位からスタートした。そこには和田とADVANのこんな秘策があったという。

「ハード目のタイヤでスタートしたんです。ソフトはブローしたらダメだけど、ハードはマックスまで使っていける。もう1つはエンドレスのブレーキパッドですね。花里社長と試行錯誤を繰り返して、やっと鬼のようなハードブレーキに耐えるパッドができたんです。ロックするかしない硬いパッドで走っていたから、ハードタイヤがあっていたんでしょうね」

レースはセミウエット、ドライ、ウエットと変化する難しいコンディションの中、トップ争いはジェフ・リースと和田の2台に絞られていく。

「なんか調子が良かったから、今日勝たないとチャンスはないって思っていました」

再び降り出した雨による滑りやすい路面の中、リースと和田はスリックタイヤで抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げる。そして迎えたファイナルラップ。2番手でリースのスリップストリームに入った和田は、ある異変に気がついた。

「よし次の1コーナーでいける!と思ったら、リースがブレーキにトラブルを抱えてたようで、こんなところで?ってくらい手前でブレーキングした。そこで咄嗟に横にでたら路面が濡れていてブレーキロックして止まらない。そうしたらリースがインに切ってきて、ボディ同士が当たったおかげでクルマが曲がって抜けたんです。ラッキーでしたね」

「最終ラップの1コーナーを取ったら、もう抜けない」かつてマイナーツーリングで会得したセオリーのとおり、和田はトップでチェッカーを受けた。それは和田にとっても、そしてADVANにとっても初となる富士GCでの勝利であった。

さらに8月に行われた全日本F3000選手権第6戦でも、自身のトップ・フォーミュラ初優勝、そしてADVANにとってのF3000初優勝を飾り、ゼッケン26は名実ともにADVANのエースナンバーとなったのである。

ADVANのエースナンバーといえば「25」だが、2軍扱いからスタートした和田孝夫の活躍によって、彼のつけた「26」もまた、ADVANにとっては特別な番号として記憶されることになったのである。

1989年は和田孝夫にとっても
ADVANにとっても特別なシーズンだった。

1989年シーズンは和田にとってもADVANにとっても、記憶と記録に残る1年となった。

4月の富士GC開幕戦で自身初のポールポジションを獲得すると、スタートから一度もトップを譲ることなく独走。ファステストラップも記録する完全優勝を成し遂げたのだ。

その好調ぶりはF3000にも引き継がれる。GC用を流用したマッドハウス製のリヤカウルを装着した和田のローラT89/50は開幕前のテストから好タイムを連発。第2戦富士ではコースレコードを記録してポールポジションを獲得する。

ところがオープニングラップの多重クラッシュで赤旗、再スタートとなった決勝レースで、和田のマシンはエンジンが掛からず、ピットスタートとなってしまった。

「富士の時はすごく調子がよくてね。ノッていました。もうどこからでもいける感じ。だから再スタートでピットスタートになった時も“大丈夫全部抜けばいいんだから”って気持ちでしたね」

その言葉の通り、最後尾からスタートした和田は抜きに抜きまくり、レース中盤にはトップのロス・チーバーに追いついた。ではどこから抜くか? そう思案している時に事件は起きた。

「2〜3周前から何か変だなと思ってたんです。実はスローパンクチャーって気づかないんですよ。そしたらストレート・エンドで左フロントの空気が一気に抜けた。それまで4輪を使ってやっと止まっていたものが、1輪効かなくなれば止まらないですよね。幸い、大きなクラッシュはしなかったけど……」

原因はエアバルブが締め過ぎで変形してしまったことだった。ところがこの劇的な幕切れは、1989年シーズンのハイライトというべき第5戦SUGOの序章に過ぎなかった。

1989年シーズンの全日本F3000はマッドハウス製のカウルを装着するローラT89/50で参戦。第5戦SUGOでは今も伝説として語り継がれる劇的な勝利を飾っている。レース後、インタビューを受ける和田孝夫。アクシデントに見舞われながらも2番手とわずか0.32秒差さで競り勝った、その激しい攻防を物語る“出し切った”表情が印象的だ。(写真:三栄)

「今思うと好調の波が繋がってたんだと思いますね。でもなぜか重山さんが予選を決勝用のタイヤで走らせてたもんだから10番手。なんでこんなに遅いのって? って思っていたけど、日曜のウォームアップで乗ったら速いんですよ。それも重山さんの作戦だったんですね」

そう和田は述懐するが、ポールポジションの長谷見と10位の和田とのタイム差はわずか0.52秒。そう、勝機は確実に和田の手中にあったのである。

「スタートも上手くいって、それからはオーバーテイク・ショーです。赤旗中断で再スタートになってからもノッてるから全車ラップ遅れにしてやろうと思ってた。そしたら……」

好事魔多しとはこのことかもしれない。トップのチーバーを攻め落とし、1人だけ1分14秒台で独走を続ける和田が33周目の最終コーナーに差し掛かると、目の前にグンとスピードの落ちたリースのマシンが現れた。

「リースを避けてイン側に行けばよかったものをアウトに行っちゃった。そしたら4輪とも芝生に乗ってスピンして、ガードレールには当たらなかったけどコースを横断したところで、後ろから来た岡田(秀樹)君と当たっちゃったんです」

和田の左リヤにぶつかった岡田のマシンは左タイヤがもぎ取れるほどの大クラッシュ。その衝撃で和田のマシンもダメージを受けるのだが、他にも大きな問題が起きていた。

「実はそこでエンジンが止まっちゃったんですよ、うわーって思ったけど、コースに戻るふりをしてちょっと逆走して坂道で押し掛けした(笑)」

残り7周、明らかに左リヤのサスペンションアームが曲がり、4輪が接地していないマシンで和田は2位で追う中谷明彦と変わらない16秒台で走り続けた。

「まぁ、なんとかなるかと思ってました。2番の中谷さんとも同じタイムだったし。でもだんだんひどくなって、ファイナルラップの1コーナーで飛び出したら、アームが折れちゃった。そうしたらブレーキラインも切れて、止まらないんですよ。仕方ないからバックストレートはエンブレ効かせてフロントブレーキだけで止めてね。本当にヨレヨレでしたね」

結局和田は2ヒートのタイム合計で、わずか0.32秒中谷に競り勝って、自身2度目となるF3000優勝を成し遂げた。

「眼鏡」はレーサーにとってハンデだった。
だからこそ、見返してやろうと思った。

「もし頭の問題がなかったら、もうちょっと良かったんじゃないか? なんて“たられば”を思うこともあったけど、結果としてADVANでやってよかったと思います。周りの人に恵まれ、サポートされたから長い間レースができた。特に水野さんには感謝ですね。今思うと、GCでBSの23連勝を止めたとかね。富士の最終コーナーをドリフトで上がってくる写真があったり、自分でもすごい走りだったと思いますよ。

あとは僕のトレードマークであるサングラス。これは近眼で光が眩しいからと偏光レンズの眼鏡をかけはじめたことがきかっけですが、本当は眼鏡をかけること自体がレーサーにとってはハンデだった時代です。『眼鏡はダメだ(=遅い)』ってGCのときにはっきり言われたこともありました。その時は“見返してやろう”、って逆に闘志が湧きましたね。ハンデも受け止め方によっては、前に向かう強い力になるんです」

現在和田は、JAFの競技審査委員会のアドバイザーとして、スーパー・フォーミュラの現場で、ADVAN(ワンメイク供給)を履いて戦う後輩たちの姿を見守っている。幾多の激戦を潜り抜けた富士スピードウェイに佇むその表情には、男として、アスリートとして、ADVANという大きな看板を背負った仕事をやり遂げた達成感と、満足感が感じられた。

(文中敬称略)

前編を読む

和田孝夫 / 後編

いいね

和田孝夫

1953年6月24日生まれ。神奈川県藤沢市出身。1972年に富士フレッシュマンでレースデビュー。翌年、富士フレッシュマンレース初優勝。その後はツーリングカー、フォーミュラ、GCマシン、そしてグループCとあらゆるカテゴリーのマシンで速さを誇った伝説のドライバーである。その絶頂期には全日本F3000選手権、富士グランチャンピオンレース(GC)全日本ツーリングカー選手権(JTC)、全日本プロトタイプカー選手権(JSPC)と、当時の全日本選手権のすべてのメインシリーズに参戦していた。度重なるアクシデントに見舞われるも都度それを乗り越え、長年第一線で活躍をし続けた“不屈の魂”をもったドライバーである。現在はJAFの競技審査委員会のアドバイザーとしてスーパー・フォーミュラでドライバーを見守るほか、FIA-F4では大会審査委員長も務めている。

和田孝夫 / 公式YouTubeチャンネル

Photo Gallery13枚