Get Back ADVAN

“不屈の魂”をもつレーサー。
和田孝夫とADVANの物語。/ 前編

2021.12.25

デビューから瞬く間にトップドライバーの仲間入りを果たすも、命にかかわる大きなアクシデントに見舞われる――しかし、再びそこから“不屈の魂”でトップドライバーへと復活を果たした和田孝夫。YOKOHAMA / ADVANと共に一時代を築き上げた名レーサーの、その“熱き魂”の深淵に触れる。

Words:藤原よしお / Yoshio Fujiwara Photography:安井宏充 / Hiromitsu Yasui

和田孝夫 / 前編

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富士のストレートで320km/h――
“マッドハウス・スペシャル”の伝説。

「シンデレラ・ボーイ」――

一夜にして脚光を浴び、スターダムにのし上がった男をこう称することがある。
和田孝夫。彼はまさにその資格を持つレーシングドライバーの1人だ。
彼のレースはいつもドラマチックで、ファンの心を魅了した。

2021年の秋、彼はかつての愛機と対面を果たした。
1989年のローラT89/50 “マッドハウス・スペシャル”。この年で終了することとなった富士グランチャンピオン・シリーズでドライブしたマシンだ。月日の流れでボディの所々にクラックが入っているが、黒と赤の“ADVAN”カラー、そして開幕戦でぶっちぎりの優勝を果たしたことを示す“1st”のステッカーは、今もしっかりと残されている。

「ここにあるのは知っていました。でも実際こうして見るのは30数年ぶりですかねぇ」

何度もマシンの周りを巡りながら、懐かしげに、そしてどこか愛おしげな表情で、和田は当時を振り返り始めた。

神奈川県足柄上郡にあるMオート・ギャラリー(株式会社トータル・オートサービス)に長年展示されている1989年のローラT89/50 “マッドハウス・スペシャル”。「T.WADA/ADVAN」の表記の前に、開幕戦優勝の証である“1st”のステッカーが誇らしげに貼られている。和田はこの記念すべきマシンと実に30年ぶりの再会を果たし、感慨深げな表情でその姿にジッと見入っていた。

「マッドハウスの杉山さんが、これと、その前の年もカウルを作ってくれてね。でも最初に乗った時は怖かった。速すぎちゃって。当時ヘアピンからダンロップコーナーまで行くのは当たり前のように全開だったんですよ。そのまま最終コーナーに入ったら速すぎて踏んでいけなくて。それを星野一義さんに話したんですよね。そしたら“お前バカなこと言うんじゃないよ、グランチャンで最終を全開で行けないクルマなんか知らねぇよ。デタラメ言うなよ”って怒られました」

そういって和田は笑う。しかしそれは決してフロックではなかった。1988年、89年と和田は文字通りYOKOHAMA / ADVANのエースとして快進撃を続けるのだ。

「めちゃくちゃストレートが速くて私のクルマだけ320km/hも出たんですよ。確かにタイヤとマッチングした時は誰よりも速かったですね」

富士スピードウェイのホームストレートで320km/hの最高速が出たという1989年のローラT89/50 “マッドハウス・スペシャル”。奇才・マッド杉山(杉山 哲)の手による考え抜かれた空力性能が与えられていた。(写真:三栄)

デビュー当時からセンセーショナル。
“とんでもない奴が出てきた”と注目を集めた。

1953年、和田は神奈川県藤沢市に生まれた。

日産厚木自動車部品に勤め、手先が器用な父、スカイライン54Bに乗る兄のいる環境で育ち、中学生のときには隠れて54Bを乗り回していたという和田は、地元江ノ島で行われていたジムカーナを見て「これしかない!」と決意。16歳で地元のモトクロス・チーム“海老名ファントム”に加入するもすぐに4輪への転向を決意する。

「高校時代からバイトしていたガソリンスタンドに就職して、社長に“まず3年みっちり働きます。なので先に退職金ください”って50万円前借りして。それで中古のB110サニーを買ったんです」

1972年8月13日、和田は「富士フレッシュマンレース・シリーズ第4戦」でデビューを果たすのだが、結果はリタイアに終わる。というのも、地元の先輩が見よう見まねで改造したエンジンが走り出すやいなや、あっけなくブローアップしてしまったからだ。

「キットパーツの時代でしょ、もうデタラメでしたね(笑)。そこで紹介してもらったのが、横浜のマツオカ自動車でした。いきなり“勝てるクルマを作ってください”なんて、レースもしてない奴がふざけた話だけど、松岡さんは“お金が出せるならやるよ”って言ってくれた。結局9割くらい作り替えられてね、当時で300万円くらいかかりましたよ」

そのサニーとともに臨んだ1973年3月の富士フレッシュマン『aレース』で、和田はいきなりセンセーションを巻き起こす。

「予選からいきなり速いんですよ。決勝もヨーイドンでいきなりトップに立ったんですが、そのまま2周目に飛び出して2〜3回転してリタイア(笑)」

当時のオートスポーツ誌には転倒する和田のサニーの姿が大写しで掲載されている。怪我の功名とでもいうべきか、パドックでは「とんでもない奴が出てきた!」と和田の名はすぐに広まった。だが、マシンが全損となったため、昼間はスタンドで働き、夜になったら松岡のもとを訪ねクルマ作りを手伝う生活を送ることとなる。結局、和田が再びレースに出場できたのは、1974年3月の富士ツーリング・チャンピオン・レース第1戦だった。

「当時は土屋、トリイ、東名が強くて、マツオカなんてまだまだの時代。僕はクラブマン『aレース』で、格上の『bレース』には高橋健二さん、杉崎直司さん、長坂尚樹さん、星野薫さん、秋山孝司さんなどすごいメンバーが出ていたんです」

ここで和田は2位に2秒以上の大差をつけるどころか『bレース』よりも速いタイムを叩き出してポールポジションを獲得。3周目にトップに立つと独走で優勝を飾った。

高橋健二が繋いだ
YOKOHAMA / ADVANとの縁。

「その頃から健ちゃん(高橋健二)と話をするようになりました。富士スピードウェイの近くの民宿が僕たちの定宿でね、早乙女実さん、杉崎さん、土屋春雄(土屋エンジニアリング代表)さんに可愛がってもらうようになりました。でもいよいよ借金が膨らんで、流石にやめようと思ったのもその頃でした……」

そこで救いの手を差し伸べたのが、後に和田、高橋国光とともにADVAN 三羽烏となる高橋健二だった。高橋は和田に横浜ゴム(GTスペシャルで参入)の開発ドライバーをやらないか? と声をかけたのだ。その時のことを和田は今も鮮明に覚えている。

「1976年ですね。初めて新橋の本社に行ったときに販売営業の水野雅男さん、あと宣伝の斉藤(真吉)さんもいらしたかな。僕はサングラスなんかしてましてね。とんでもない奴が来たって、水野さんにジーッと睨まれて。“レースをやらせてもらいたかったら、真面目にやらないとダメだぞ”と言われました。でもこのお陰でレースをやめなくて済んだ。それが全ての始まりです。“若くてイキのいいのを探している”という条件に、当てはまったんですね」

和田孝夫といえば“ツッパリサングラス”が当時からトレードマークだったが、その理由を「実は僕は高校の頃から近眼でね。太陽の光が眩しかったんです。だから当時流行っていた偏光レンズのやつをかけていただけ。たまたまなんですよ。それがトレードマークになった」と笑って話してくれた。

和田孝夫といえば“45度のツッパリサングラス”がトレードマークだった。どこか不良っぽいその出立ちは当時の“街道レーサー”たちから絶大な人気を誇った。この日の撮影時も、「サングラス、持ってきましたよ」と悪戯っぽく笑って自らサングラス姿でマシンの前に立ちポーズをとってくれた。こうしたサービス精神も和田孝夫の魅力である。

横浜ゴムとの開発ドライバー契約を済ませると、和田はすぐにマイナーツーリング(TS)でトップドライバーの仲間入りを果たすとともに、大塚光弘とコンビを組んで耐久レースにも出場。富士1000kmでクラス優勝し、1976年の日本モータースポーツ記者会の’76フレッシュファイター賞に輝くなど若手のホープとして注目を集める。

続く1977年には横浜ゴムとともに、現在のF3にあたるFJ1300シリーズでフォーミュラカー・デビュー。さらにこの年からスタートしたフォーミュラ・パシフィック(FP)シリーズにも、ル・マン商会から日産エンジンを積んだノバ53Pで出場するようオファーが舞い込んだ。

「日産のワークス・エンジンに乗るからには契約が必要だと大森に行ってね。難波靖治さんにもお会いして契約しました。この時、FPはダンロップを履いていたんですが、水野さんがダンロップの京極部長を慕っていて“ぜひうちの若いのに勉強させてください”って話をつけてくれたんです。そういう大らかな時代でした」

その後のレース人生を左右する
“頭上マシン落下”アクシデントからの復活。

横浜ゴムとの契約、TSレースでの活躍、フォーミュラ・デビュー、そして日産との契約と、本人が言うようにトントン拍子で和田は日本を代表する若手トップドライバーの1人にのし上がった。そして更なる高みを望もうと、和田はある賭けにでた。

「78年、当時のトップフォーミュラであるF2に出たいとルマン商会の花輪さんに相談したら、メンテナンスで100万円、東名のエンジンで100万円、マシンはラルトRT1なら用意できるから100万円、合計300万円で1レースに出れると言われたんです。そこでわかりました300万円用意しますと言って、鈴鹿グレート20ドライバーズ・レースに出場したんですよ」

ラルトRT-1は当時すでに3年落ちのマシン。戦闘力が低くルマン商会の倉庫に置き去りにされていたものだった。

しかしここで奇跡が起きる。

「東名のエンジンも良くて乗りやすくてね。初めての予選で3位になっちゃったんですよ」

新人が型落ちのマシンで、星野一義、松本恵二に次ぐ予選3番手を獲得したことは大きなニュースとなった。さらに迎えた決勝でもスタートこそ出遅れたものの、すぐに3位を取り戻し、先行する星野、中嶋(悟)との差をジリジリと詰め始めたのだ。そんな和田に期待の集まった16周目、ヘヤピンで突如スピンを喫すると、そのままピットに戻ってリタイアとなってしまった。

「予選ってガソリンをちょっとしか入れないでしょ。その時はすごく良いクルマだったのに、日曜に満タンにしたらスポーツカーからダンプカーに変わっちゃった。しかも重くなったらGもすごくて首が持っていかれちゃう。あーこりゃダメだって。そしたら急にハンドルが効かなくなってスピンしたんです。ピットではみんな惜しかったと言ってくれましたが、こっちとしては助かったって思いましたよ(笑)」

レースに出るために大きな借金を抱えながらも、寝る間を惜しんでバイトをしながら返済し、レースではチャンスを確実に生かしてステップアップを果たしていった和田。当時を振り返る際の表情はいたって明るいが、そこには多くのプレッシャーも伴ったはずだ。

さらにこの話には後日談があった。

「最初から300万円なんてお金なかったんですよ(笑)。そうしたら花輪さんが、これでラルトに注文がバンバン入るから宣伝費としてレンタル代もメンテ代もいらないって。東名自動車もエンジンの宣伝になったからいらないって1銭も払わずに済んだんです。しかもレースを見ていたハラダ・レーシングから、新車を注文したから来年からF2とGCやってくれって!」

迎えた1979年シーズン、和田は全日本F2、富士GCに加え、FP選手権にも出場。11月3日のJAF鈴鹿GPで自身初となるFPでのシリーズ・チャンピオンを獲得すると、翌4日にはメインレースのF2に出場した。

このレース、予選6番手からスタートした和田はトップグループを走行する。しかし迎えた4周目のヘアピン、和田の後方を走る長谷見昌弘のマシンに勝負を焦ったべッペ・ガビアーニのマシンが乗り上げる形でクラッシュ。なんと宙を飛んだガビアーニのマシンが、和田の頭上に落下したのだ。

「当時の記事で意識不明って書かれてますけど、実は心肺停止だったんです。ヘアピンにも救急車がいて、当直のドクターが蘇生してくれた。実は最近その方からメールをいただきました。“治ってご活躍されてよかったです”って」

でも実は今でも治っていないのだと和田は言う。それはある意味、和田のレース人生をも左右する深刻な後遺症をもたらした。

「頭って一度ダメージを受けると治らないんです。あの事故以降、今でも調子のいい時と悪い時があるんです。でも頭の調子が悪いから走れないなんて、シートのことを思うと言えないじゃないですか。だからダメな時は必死に言い訳を探してました。タイヤの皮むきをしてたとか、タイヤがダメだとか。……タイヤのせいにばかりにしてましたね(笑)」

そんな和田に救いの手を差し伸べたのが、横浜ゴムの水野だった。水野は和田にADVAN土屋サニーのシートを用意し、再びマイナーツーリングを走るようオファーしたのだ。その期待に応え、和田は初年度からチャンピオン争いを展開。81年こそ年間2位に甘んじたものの、82年には最終戦で王座争いを展開していた萩原光のADVAN東名サニーを0.01秒差で下す3位に入り、見事にシリーズチャンピオンを獲得してみせた。

1982年のマイナーツーリング最終戦。王座争いをしていた萩原 光のADVAN 東名サニーを0.01秒差で下す3位に入り、見事シリーズチャンピオンを獲得した。(写真:三栄)

「まだバイアス・タイヤの時代でね、良いとか、悪いとかわからずに乗ってました。山下部長には“和田は黒くて丸いのつけておけばいい”って言われていたくらいですからね。

82年の最終戦。B110での最後のレースはね、ずっと萩原君と競っていたんですよ。当時のマイナーツーリングって最終ラップの1コーナーを取ったら、もう抜けないんです。でも最後に萩原君に抜かれて、まいったなーって思ってたらヘアピンの立ち上がりで彼のお尻がちょっと出たんです。よし、これはいけるって最終コーナーを立ち上がった。そこで萩原君は5速に入れたけど、僕は4速のまま引っ張って0,01秒差でチャンピオンになれたんですよ。これには土屋さんが喜んでね。あとで聞いたら1万回転以上回していたからプラグが溶けていたらしいです。でも土屋さんはね“エンジン壊したのはいい、勝てばいい”って」

このマイナーツーリングを通じて、和田孝夫は再びレースの勘とテクニックを研ぎ澄ましていくのだった。

(文中敬称略)

和田孝夫 / 前編

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和田孝夫

1953年6月24日生まれ。神奈川県藤沢市出身。1972年に富士フレッシュマンでレースデビュー。翌年、富士フレッシュマンレース初優勝。その後はツーリングカー、フォーミュラ、GCマシン、そしてグループCとあらゆるカテゴリーのマシンで速さを誇った伝説のドライバーである。その絶頂期には全日本F3000選手権、富士グランチャンピオンレース(GC)全日本ツーリングカー選手権(JTC)、全日本プロトタイプカー選手権(JSPC)と、当時の全日本選手権のすべてのメインシリーズに参戦していた。度重なるアクシデントに見舞われるも都度それを乗り越え、長年第一線で活躍をし続けた“不屈の魂”をもったドライバーである。現在はJAFの競技審査委員会のアドバイザーとしてスーパー・フォーミュラでドライバーを見守るほか、FIA-F4では大会審査委員長も務めている。

和田孝夫 / 公式YouTubeチャンネル