YOKOHAMA LOVERS

永遠の先輩―
LBWK 加藤 渉の信条。

2023.1.31

カスタム界のカリスマにして最強のエンターテイナー、LBWK(リバティウォーク)加藤 渉。底抜けに明るく、そして果てしなく突き抜けたパフォーマンスでシーンを牽引し続けてきた男が、若い頃から憧れの存在だったというYOKOHAMA / ADVANのために、普段はあまり表に出すことのない内に秘めたる信条を熱く語ってくれた。LBWKファンならずとも心揺さぶられる、世界に挑み続けた男の魂の在り処に触れる。

Words:髙田興平 / Ko-hey Takada(Takapro Inc.)
Photography:田村 翔 / Sho Tamura

“反抗の時代”を生きたからこそ
得られるものがあった世代

「昔のアルバムとかはない。昔の自分には写真は必要なかったから。“その瞬間(とき)”がいちばん大切だった。だからその場で終わっちゃうことにはあまり興味がなかった。仲間と過ごす時間がいちばん大切。写真に何が残せるの? 今のこの瞬間は今しかないでしょ? なーんて、若い頃はそんな風にイキがっていたけれど、ご存知のとおり今は写真大好きですけどね(笑)。みんなとのたくさんの思い出が残せる素晴らしいものだと、今は素直に思えますよ。でもあの頃は、その瞬間さえあればよかった」

LBWK(リバティウォーク)の加藤 渉(かとう・わたる)と言えば泣く子も笑う稀代のエンターテイナーであり、世界にその名を轟かすカスタム界のカリスマでもある。彼の言動はいつだってストレートだ。まるでマシンガンのように次から次へと飛び出してくる真っ直ぐで飾り気のないその言葉の奥にはしかし、ときに“ものごとの真理”のようなものまでが秘められていたりもするから余計に興味深く、何より自然と惹きつけられる。

「オレらの若い頃は不良というスタイルがひとつの文化だったよね。良いとか悪いとかではなくって、多くの若者にとってそれこそが正義だった。まずは学ランから入るんですよ。短ラン、長ラン、洋ランとか、今じゃそんなの着てる子なんて一人もおらんけど、オレらの時代はあれが入口。反抗の証ですよ。規則を離れて自己主張を覚える。コンプラやらいろいろと制約のある今の時代の常識ではあり得ないのだろうけど、オレらはあの反抗の時代を生きることができたからこそ、そこから得るものもたくさんあった」

乗り物だって当時は今の比ではなく若者にとってより身近で、何より光り輝く存在だったという。今も昔も、社会通念として暴走行為が決して許されるものではないことに変わりはないが、若者が何かに抑え付けられることに対して抗う気持ちは、今より遥かに強かったと加藤は言う。

「中学までずっと野球少年だった。小学生の頃は新聞配達もして、真っ当と言えばふつうに真っ当でしたよ。でも高校で不良の先輩を見てその姿に素直に憧れた。純粋なんですよ、入口はあくまでも純粋なの。不良になって何か特別に悪さをしてやろうなんて考えてないですから。だからグレる、というのとも違う。
クルマだって同じ。先輩たちが高校の卒業式にはみんなクルマで来る。シャコタンでノーサスの改造車の横に乗せてもらって『この突き上げやべえな!』って、今考えたらかなり酷い乗り心地に意味も分からず興奮して、『自分も絶対コレに乗ろう!』って後輩のオレらは心に決める。常にそうやって先輩たちの背中を追いかけてそれまで知らなかったスタイルやカルチャーに憧れを抱く。カッコいいものはカッコいい。難しいことなんて一切考えない。そういう大らかな単純さが許された時代でもあったよね」

クルマは先輩から譲ってもらう。改造の仕方も先輩から教えてもらう。そうやって“自分たちのカルチャー=文化”を次の世代に継承していく土壌がこの時代には確かにあった。

「上下の厳しさはあっても、その分だけ先輩のバックアップがあった。変に後輩を抑え付けない。自分たちの好きなものをきちんと次へと繋げて行こうという考え方。最初はさ、人もクルマも見た目に憧れる。でも、次第に『外見だけで判断していちゃダメだぞ』って気づく。見た目はイマイチな先輩がさ、何かあったときに体を張ってでも仲間や後輩を守る姿なんかに触れるとね、『あ、大切なのは内面なんだ』って気づかされる。
クルマの改造も同じだよね。カッコだけじゃなくて中身のある改造があることに気づく。お金がないからタイヤもサスも新品なんて絶対買えない。仲間と夜な夜な駐車場に集まってサンダー片手にバネ切ってどんどん車高下げて、気づいたら“亀”になってて『あーあ』って(笑)。タイヤは中古のツルツルのを履いていましたよ。ゴムが減るのが嫌だから敢えてガチガチに硬化した古タイヤを『コレがサイコー』って、今考えたらもうめちゃくちゃ。でも、それが本当に楽しかったし、クルマの改造を通して先輩や仲間との付き合い方を学んだ。何よりたくさんの失敗ができた。失敗をしながらきちんと工夫すれば形にしていけることも、この頃に学んだ。そういう経験の積み重ねが、今の自分の中身になっているのは間違いないですよ」

中学まではどこかお山の大将のように小さな枠組(学区)の中で皆が互いに意地を張り合っていた。しかし、高校になるとそれがバラけることで、逆に仲間同士の“強固な輪”が増していったのだという。

「小さな枠組みの中でいくら威張ってもダメってことですよ。小学3年のときに自分勝手な悪さばかりして、気がついたらクラスの誰もが喋ってくれない経験をした。学級会で吊し上げられたけど、当時の担任の先生に『もっと仲間を大切にしろ』って教わって救われた。負けん気は昔から強かったし、それは今だって変わらない。クルマを改造するのも人とは違う自分の個性を表現したいから。だからあえて固定の場所やグループにこだわらなかった。友だちはいろんな場所にいた方が楽しいからね。それぞれが個性をぶつかり合わせながら仲間でいられる。そういう関係がいい。根っこで同じ想いを共有できて、ライバルは良い意味でバネにして、認めるときは素直にリスペクト。改造車の世界の良し悪しは、あくまで自分自身がカッコいいと思えるかどうか? それに尽きる。でも、だからといって一人よがりで『オレのがいちばん』って威張っているだけでもつまらない。『改造が好き』という輪の中で、それぞれが切磋琢磨して自分のカッコ良さを磨き上げていく。それを互いに認め合う。そういう世界が理想だよね」

『それがお前の真の姿か?』って
天狗だった自分を先輩が諫めてくれた

「ここで昔バイトしてた。でもシフトに入るときに『加藤、入ります!』って言わされるのが嫌で小さい声でぼそっと言ったら『声が小さい!』って注意されて、1日で辞めた(笑)。今は誰より声が大きいのに、オレにだってそういうときがあった」

白いシャコタンのケンメリでファーストフード店のドライブスルーに入りながら加藤がどこか懐かしげに言う。高校を卒業した加藤は職を転々とした。曰く、「負けん気が逆に作用した」のだとか。生コン屋や水道の配管工をしたときはサボり癖みたいなものが付いて、「もっと我慢を覚えよう」と牧場で体を使って働いたというのは有名な話だ。その頃は、ガラスの硅砂工場でも掛け持ちで働いた。ハードではあったけれど「もっと自分のクルマを改造したい」という想いが加藤を突き動かした。稼いだ給料はクルマの改造に注ぎ込んで、仕事終わりによく買ったハンバーガーにたまにチーズを入れるのが自分へのご褒美――そんな生活を送っていたという。

「クルマ屋の世界に入ったのは25歳のとき。外車を売る店に入って売りまくった。はっきり言って営業の才能はバツグンでしたよ。その後に独立してリバティウォークを始めて、スーパーカー屋みたいになっていた時期もある。だいぶ儲かったけどその分だけ勘違いもした。本来クルマそのものが好きだったはずなのに、商売の道具のようにクルマやお客さんを見てしまうようなところがあった。そうなると態度にも現れる。自分では気づかなくてもどこかで天狗になる。そんなときに厳しい言葉と態度で悟らせてくれたのも地元の先輩だった。『それがお前の真の姿か?』って、本気で諫めてくれた。だから気づくことができたし、今に繋がる“自分らしさ”で再び仕事と向き合うようにもなった」

たとえどんなに才能があっても人は一人では成功できない、と加藤は言う。人の助けがあってはじめて人間は成長ができるのだ、と。しかし、それでもときには自分自身を貫くことを強く求められるのもまた、人生なのだと、いつになく真剣な眼差しで続ける。

「みんなで仲良く手を取り合って……というのも確かに理想。でも、世の中には競争しなきゃいけないこともある。全体主義とか個人主義とか捉え方はいろいろあるけれど、結局は自分自身が楽しめているかどうか? それがいちばんだよね。海外では自己責任って考え方が当たり前。すべての責任は自分にある。だから誰かのせいにするのではなく、自分が正しいと思うことを真剣にやる。セマ(アメリカ)、エッセン(ドイツ)、ジュネーブ(スイス)、そしてグッドウッド(イギリス)と世界の名だたるカーショーやイベントにもたくさん挑んできたけれど、そういう舞台でも変に萎縮せずに思い切り自分たちらしさを貫いたことで世界がやがて、リバティウォークを、加藤 渉を認めてくれた。
今から10年ちょっと前にランボルギーニのボディを切ってワークスフェンダーにしたときも色んなことを言われましたよ。今だってフェラーリのF40をやるとなれば賛否両論が世界中で沸き起こる。でもさ、ときにはアンチだって必要だよね。色んな意見があるからカスタムは面白いし、だからこそ挑み甲斐もあるわけだから。オレが世界中のイベント行って日の丸の旗を振るのもさ、常にクルマ好きの日本代表として、“世界の頂”を目指しているという想いが強いからなんだ。気分はカスタムのワールドカップ(笑)」

“昭和の改造魂”を
この先の未来に繋げたい

「革命を起こしたい」と、かつて加藤が口にしていたことを思い出す。やけに敷居が高いこれまでの“クルマ屋”ではなく、子供たちが気軽に入って来られてクルマと自由に触れ合うことのできる“カスタムランド”を作る。だからこそ真剣にアパレルに取り組み、ミニカーを作り、プラモデルのコンテストもやって実車でなくても“クルマを楽しめる”環境を作り上げ続けてきた。ブログやSNSでの配信も、すべて自らの言葉で世界中に発信し続けてものすごい数のフォロワーを獲得してきた。

「改造車ってさ、切った貼ったをする時点で価値がなくなるって言われていたし、実際、カスタムしたショップ自身がお客さんからそのクルマを適正な価格で下取ることをしなかった。それじゃ、続くわけがないよね。一生懸命お金を掛けて改造しても最後に売れずにゴミになったら誰もその次には行けなくなる。だからウチ(LBWK)ではきちんと下取る。価値は自分たちで責任を持って付ける。世界中の仲間たちが力になってくれるからこそ、それが出来ている部分もある。でもさ、ブランドって本来そういうものだよね。
ボディキットだって売れるか売れないかの判断基準だけで作ってない。もちろん開発には金が掛かる。でも、それを回収することばかり考えていたらファンが喜ぶようなものは絶対に作れない。この10年の間に70種類くらいのボディキットをリリースしてきた。中にはワンオフに近いものもあれば軽自動車用だってある。オレはさ、『これがリバティだ!』って特別な色を作る気はない。何かひとつに縛られたくはない。面白い流れやアイデアがあればそれを真似ることだってあるし、逆に自分が真似されたって怒らない。本物ってさ、真似されるからこそ本物なんですよ。真似をされたらされたでさ、自分たちはさらにその先に進めばいいだけの話だから」

加藤がコレクションしている“YOKOHAMA”の赤レターが入ったレーシングスリック。若い頃の憧れを今も決して忘れないという美学が、彼の生み出すカスタムスタイルには常に落とし込まれている。そう、憧れは永遠なのだ。

「結局、オレたちはずっと先輩の背中を追っかけて、自分がカッコいいと憧れたその姿を真似しながら成長してきた。YOKOHAMA / ADVANが好きな理由は単純ですよ。当時のシャコタンの改造車にいちばん似合うタイヤが、YOKOHAMA / ADVANだったから。ADVANのさ、黒と赤の色分けってすごく潔くっていいよね。あとショルダーの丸みなんかもさ、引っ張って履かせると本当にベストマッチするんだわ。そうやって若い頃から『履きたい』って憧れを抱き続けられた存在って、やっぱりYOKOHAMA / ADVANしかなかった。だから今でも、自分の大切なカスタムの形には組み合わせている」

SNSやイベント、アパレルにグッズとLBWKは“クルマ屋”の枠組みを遥かに超えた領域で常に進化を遂げ続けている。社内には若い世代のスタッフが溢れ、皆が生き生きとクリエイティブに挑んでいる姿が印象的である。

「ここまでで60%くらい。0%から60%までは確かに長かった。でもきっと60%から80%も長いし、80%から100%はもっと長いはず。要はさ、自分自身で『これで完璧!』って決めちゃったら、その時点でもう次には進めなくなるってこと。『加藤さんも頂点極めましたね』なんて言ってくれる人もいるけどさ、オレはまだ全然極めてない。クルマの改造が与えてくれるパワーはさ、まだまだこんなもんじゃない。だからまだやる。若い世代に真っ直ぐに想いを伝えながらさ、“昭和の改造魂”をこの先の未来に繋げたいんだ。それこそが、改造という文化が光り輝いていた時代を生きることのできた、オレら先輩たちの使命なんじゃないかって、思うんだ」

(了)

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