Grip the Soul

TOP GUNに魅せられて―
“Dai Yoshihara”の挑戦。

2022.12.15

映画「TOP GUN」を観て「いつかアメリカに住む」と夢見た少年は、長じてアメリカの自動車文化におけるキーマンの1人として、シーンに大きな影響力をもたらす存在にまで成長した。吉原大二郎、アメリカでは“Dai”の愛称で親しまれるこの男は、レーサーであり、プロデューサーであり、そしてインフルエンサーとしても、クルマの楽しさ、未来へ向けた可能性までをアピールする活動を日々精力的に続けている。八王子が生んだアメリカンヒーロー、Dai Yoshiharaの想いに迫る。

Words:髙田興平 / Ko-hey Takada(Takapro Inc.)
Photography:真壁敦史 / Atsushi Makabe

アメリカに住みたい――
ピュアな夢を叶えたオトコ

「ドリフトで生計を立てるつもりはなかったですね。そもそもモータースポーツを生業とすることすら考えていなかった。でも、不思議とアメリカに行けば自分は何者にでもなれる、とは思っていた。そういう、ずいぶんと漠然とした想いでボクはアメリカに渡って来ましたね」

きっかけは中学1年のときにテレビで観た「ゴールデン洋画劇場」だった。

「TOP GUNをやっていたんですよ。もう一発で魅せられてしまって。八王子の何の取り柄もないような少年だったボクは、家のテレビに映し出されるアメリカの凄い世界を見せつけられて、『いつか絶対にここに住む』って、そこは割と本気で心に決めて。戦闘機云々よりも、テレビの画面に映し出されるアメリカの景色が堪らなくカッコよかった」

よくある話ではある。思春期の少年がアメリカの壮大なスケールと日本にはない垢抜けたライフスタイルに魅せられ、いつの日かアメリカの地で生きる自分の姿を夢見る。しかし、大抵の場合は思春期を過ぎ、世の中の現実が少しずつ見えてくると「所詮、夢は夢」と我に返り、遥かアメリカの地で生きるのを熱く夢見たことなどいつの間にか綺麗さっぱりと忘れ去ってしまうものである。

だが、吉原大二郎は違った。彼は本当にアメリカに渡り、モータースポーツの世界で成功を収め、若き日に憧れたアメリカの地で家族を養いながら“プロ”として今も生活している。FORMULA DRIFT®︎で長年活躍したのち、現在はパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム(PPIHC)やタイムアタック、耐久レースなど、ドライバーとしての活動の場を多岐にまで広げている。

吉原大二郎の愛車の1台であるAE86。北米モデルを日本仕様とするいわゆるJDMスタイル。非常にクリーンな仕上がりが光る。

「ボクが最初にアメリカに渡った2003年頃はスポコン・ブームの最中で、カーショーの仕事に関われないかと考えていました。クロスファイブやIMPORT SHOW OFFに関わってケン・ミヨシさんのお世話になると、その頃ちょうど人気の高まりはじめていたドリフト系のショーをやろう、って話に繋がって。ボクはそういう流れの中でD1GPがアメリカに初進出する大会の選考会みたいなものにドライバーとして出ることになって。正直、自分的には不思議というか、ちょっと微妙な感覚でしたね。日本からアメリカまで渡って来て、わざわざ日本から来るイベントに出るのかよって(笑)」

選考会を難なく通過(ベスト8)した吉原大二郎はアーウィンデールで開催されたD1GP USAで結果(ベスト16)を残し、その後は2004年からスタートしたFORMULA DRIFT®️に初年度より参戦することになる。

「ボクは世代的にイニDとか、あとはドリキンとかの影響が強くって、八王子にいた頃は峠でドリフトしたりしていました。その前はバイクでしたね。これも峠走ったり、南大沢でゼロヨンやったり、まあ、人並みにヤンチャでした」

ガソリンスタンドでアルバイトをして、夜はストリートを攻めるという生活は当時の八王子で暮らす若者のごくスタンダードなスタイルだったという。今では価値が高騰しているAE86もドリフト仕様の個体が2万円ほどで買えてしまった時代の話である。

「ほんと、つくづく時代がよかったですよね。お金のない若者が日常的に走ることを楽しめる環境があった。今ではいろいろ許されないことも多いですけど、あの頃はストリートを舞台にクルマで遊ぶことが許される最後の時代。ちなみにボク、イニDの主人公の藤原拓海とは同い年。そう、もろに“世代”なんですよ。あ、だからタイヤはもちろん、YOKOHAMAのGRANDPRIX M7Rが憧れでした。パターンがカッコよくてドリフトしてもブロック飛びしないし凄いなって。中古でしか買えなかったけど(笑)」

アパレルの展開も積極的に仕掛けている。ストリートカルチャーとクルマが上手く融合しているのがアメリカのよさだという。往年の日本のレースカーをオマージュすることも多い。海を渡って歴史の価値が受け継がれているのだ。

FDでチャンピオンに輝くも
自分は何者か?と葛藤を抱く

吉原大二郎はFORMULA DRIFT®︎に実に18年もの長きに渡って参戦。初年度の2004年にシリーズ2位、その後は勝利を積み重ねるもなかなかその“頂”には手が届かなかったが、2011年、参戦8年目にして悲願のシリーズチャンピオンを獲得した。

「もちろん嬉しかったし、やり遂げたという想いもあったけれど、その先を考えると、同時にどこかで不安を覚えることもあった。アメリカってすべてにおいてスケールが半端じゃない。上を見ればキリがないし、やれること、挑める世界がいっぱいある。ボクはドリフトではどうにかその頂に上がれたかもしれないけれど、その先は果たしてどうなるの? って。特に自分自身に『ここを目指す』って明確な考えがないどこか半端な状態で進んできた分、不安も大きかった」

日本が恋しくなることもあったという。それも当然だろう。生まれも育ちも生粋の日本人。いくら日本には“比較的近い”とされるLAをベースにしていても、そこには文化を含めてあらゆる面で違いがある。

「TVコマーシャルのスタントドライバーだとか、タイムアタックへの挑戦だとか、クルマやアパレルのプロデュースだとか、いろいろ食べていくための仕事もあるし、その先の新しい仕事の方向性だって見出すことはできています。ただ、昔の自分を思い起こすと改めて考えさせられることもある」

アメリカに憧れてその場所に少しでも近づきたかった若き日の吉原大二郎は厚木基地で働けば話が早いと考えて、それなら軍属のコックがお客で来る相模原の中古車屋で働こうと、そんな感じに少しずつ手探りでアメリカに近づいていった。「運が良かったのかどうかは自分でもよくわからない」と言うが、そうした流れを前に前にと繋いでいって、アメリカでドリフトドライバーとして一定の結果を残すことができた。

「でも、じゃあその次は? って言われると、自分でもどうなんだ?って。中1のときから本気でアメリカで暮らしたかった。その夢は果たすことができた。今は大切な家族だっているし、彼らを養う義務もある。でも、それは日本にいたって当たり前のことですよね。アメリカに来たとき、自分は何者にでもなれるって思っていたけど、じゃあ、今のオレは一体何者なんだ?って、そういう葛藤はここしばらくの間はあったかな」

ストイックなのだと思う。本人は「ボクはそんな大層なものではない」と真っ向から謙遜するが、一見、飄々と時の流れ任せの生き方をしているように見せながら、その実「何者かになる」という想いに対しては、人一倍の真っ直ぐな努力で向き合っているように感じる。そう、この男は常にその先、その上を見つめている。

evasive / TURN14のTesla Model 3でPPIHC2022に参戦。予選は好天に恵まれるもレースデイ(決勝)は荒天に見舞われ満足のいくアタックは出来なかったが、それでも総合9位、クラス2位というリザルトを残している。次回はさらなる記録更新に期待したい。

「やっぱり記録には常に挑みたいですよね。パイクス(PPIHC)は、最初はリース・ミレン(PPIHCのレジェンドであるロッド・ミレンの息子で、自身もクラス優勝経験をもつ)に連れられて2008年に観に来ました。その頃はまだ山頂のセクションはグラベルがあって、コレはヤバイなって。こんなスリリングな場所でスピードを競い合うなんて凄いって素直に思いましたね。でも、2012年にコースがすべて舗装されてしまってからは正直、興味は薄れた。なんだかヤバさが半減した気がして」

2022年、100周年の記念すべき大会となったPPIHCに吉原大二郎は2021年式のテスラ・モデル3(#89 / エキシビション・ディヴィジョン / タイヤはYOKOHAMA)で参戦していた。2020年にはトヨタ86で挑みクラス優勝(2019年のルーキーイヤーはリタイヤ)、2021年は今回と同じテスラ・モデル3で挑んだがマシントラブルで結果は残せなかった。

「今年のレースは総合9位、クラス2位というリザルトでしたけれど、深い霧と山頂では雪も残ったからとても記録に挑めるような状況ではなかった。でも、それもまたパイクスの現実であり醍醐味。レース後に山頂でボクが持参した響(日本のウィスキー)を他のコンペティターたちと分かち合うあの感じも、グラスルーツ、日本で言うところの草レースの最高峰って感じがして最高ですよ。今はEVで走っていますけど、EVにはEVの楽しさもある。ボクはそういう新しい価値観をより多くの人に伝えることも自分の使命なのかなって、最近は感じはじめています。クルマの楽しさって、やっぱりもの凄く幅があるものじゃないですか。だったらその幅をまずは自分自身が楽しんで、意味を理解した上でその先に伝えて行けたらいいなって」

“好き”を“情熱”に
変換させる力

ラスベガス・コンベンションセンターで年に1度開催される世界最大級のカスタム&アフターパーツのトレードショー「SEMA SHOW」に、吉原大二郎は自身がプロデュースした3台のショーカーを出展していた。

Zのエンジン(VR30DDTT)をスワップした日産フロンティアのプレランナー、往年の日本のツーリングカーレースのマシンをオマージュしたアキュラ・インテグラ、そしてGReddy Performanceの珠玉のコンプリートエンジン(クレートモーター/木箱に入れられて販売する)を搭載したR33GT-Rと、SEMAにおいてもかなりの注目を集めるものばかりであったことが印象的である。

TURN14のブースに置かれた“Dai R33”。GReddy Performanceのクレートモーター(新品ブロック&ヘッドには航空宇宙産業から下りてきた特殊なCNCポート加工などを施し最大1500hpにまで耐用する)を軸により現代的なパフォーマンスアップが図られている。トランスミッションはシーケンシャル式でパドルも備える。タイヤはADVAN NEOVA AD09を履く。

「このR33 GT-Rはポルシェやフェラーリと張り合えるパフォーマンスとクオリティを与えることをコンセプトにしています。日本車の人気は本当に高まっているし、それが単なる流行ではなく、今ではひとつの明確なカテゴリーになっている。第二世代のGT-Rや、それこそAE86辺りの値段が高騰し過ぎているのは個人的にはちょっとな、って思うところもあるけれど、そういう世代のモデルが日本車のステイタスを底上げして、新しい世代のGR86とかアキュラとかに注目が集まる流れは悪くはないかな、とも思いますね」

「まあ、所詮ボクが作っているわけではないので」と相変わらず謙遜するが、吉原大二郎という存在は、アメリカでは“Dai Yoshihara”としてひとつの明確な求心力になっているように思う。「これだ!」と変に決めつけずに、常に幅のある視点でものごとを俯瞰して、それをひとつの形、いわばクールなものへと昇華させる。

吉原大二郎が若かりし頃に日本でアルバイトしていたENEOS(当時は日本石油)。そのENEOSのブース(北米ではオイルを展開)に置かれたプレランナースタイルの日産フロンティア。アメリカ独自のカルチャーもしっかりカバーする。その幅とバランス感覚がDai Yoshiharaの武器でもある。

「いやいや、本当にボクはそんな凄いものじゃない。周りに凄い人がいてくれて、そういう皆さんとアレコレ楽しみながらプロジェクトさせてもらっているだけ。ただ、クルマが好き、日本車が好きというのは自分の芯にはありますね。そこはあまり背伸びしたくはない。YOKOHAMAさん(アメリカ法人のYTC)と取り組ませてもらっているSNSも、難しいことを伝えるのではなくって、日常の中で一般の人たちがタイヤの面白さや大切さに興味を示してもらえるような投稿を意識しています。トップエンドの世界ももちろん魅力的だけれど、もっと身近なところでもクルマやタイヤの魅力を伝えたい。SNSでもアパレルでも、もちろんイベントでも、やれることはまだまだ沢山あるなって。アメリカに暮らしているからこそ、こちらのスタイルが分かるし、逆に日本人だからこそ、日本の真の魅力も理解できる。結局それが、ボクのいちばんの武器なのかもしれませんね」

自分は一体何者か?――その答えは、Dai YoshiharaはDai Yoshiharaでしかない、ということなのではないかと思った。常に現場(ストリート)に生き、“好き”を“情熱”に変換させて世の中にその面白さを伝えていく。ときにハードでリスキーな世界にも挑みながら走り続けるその姿は、まるでTOP GUNでトム・クルーズが演じた“マーヴェリック”みたいじゃないか――と言ったら、それは少し持ち上げすぎだろうか?

Dai Yoshiharaのこれからのさらなる飛躍に期待したい。

(了)

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