Get Back ADVAN

山本昭明
ブランディングの天才が語る
“ADVANとPIAA”の物語。

2022.5.24

ADVANとPIAA――それは相思相愛の間柄としてモータースポーツの世界で一時代を築き上げた。その最良にして最強のタッグの仕掛け人であり、PIAAブランドの生みの親でもある山本昭明氏に、改めて1980年代初頭にADVANとPIAAが互いに手を取り合って目指した“世界”への想いを訊く。それは純粋に、なにより熱く真剣に“カッコよさ”を追い求めた時代の物語でもあった。

Words:髙田興平 / Kohey Takada(Takapro Inc.)
Photography:小塚大樹 / Hiroki Kozuka  三栄 / SAN-EI

“ADVANとPIAA”の物語

“レーシング”を“モータースポーツ”に。
なにより“カッコよさ”を追い求めた。

「あの頃はまだレーシングでした。モータースポーツではなく、あくまでレーシング。本気と言えばもちろん本気なのだけれど、一言で表すとまだ頭が固かった。クルーの姿を見てもジーパンにTシャツというのがほとんどでね。チームで揃いのユニフォームを着て統一感を出すなんて遊び心みたいなものは日本ではまだ希薄だった。これじゃあより多くの人を魅了するための華やかさやカッコよさとはずいぶんとかけ離れていてもったいないなと、ファッションがなにより大好きだったボクなんかは感じていたわけです」

うららかな春の陽光に包まれた葉山の朝――水面がキラキラと光る凪いだ海辺の瀟洒なマンションの一室で、その人は穏やかな表情で語りはじめた。

その人の名は山本昭明(やまもと・てるあき)――ドライビングライトやルーフキャリア、ワイパーなどのカーアクセサリーを製造・販売するPIAA株式会社の元代表取締役であり、1980年代のはじめにはPIAAブランドそのものを立ち上げて、クルマ好きではなくともその名が通るほどの普遍的な人気と知名度を誇るブランドにまで育てた人物である。

1972年にエバエース(現PIAA株式会社)に入社し、PIAAブランドの立ち上げを経て1987年にPIAAデザインの代表取締役、1991年にPIAA株式会社の代表取締役に就任。そのカリスマ性と共に同社を牽引した山本昭明氏。ファッションをこよなく愛し、PIAAデザインでは高級アパレルも展開。カーアクセサリーメーカーの枠に収まらない華と遊び心のある世界を真剣に追い求め、それをビジネスとして形にしてきた。第一線から引退した現在は、葉山の海辺に静かに暮らす。

「ランプといえばラリーということでまずそこからレースの世界に入って、同じ頃にF2やGCにもPIAAのロゴを付けるようになりました。『ランプ(ドライビングライト)の会社のブランドなのにフォーミュラのマシンにはランプなんて付いてないでしょ? そこにスポンサーする意味なんてあるの? 』って、最初は首を傾げる人ばかりだったけれど、ボクはイメージをまず走らせたかった。そう、ボクたちのブランディングでレース界をトータルでカッコよくして、欧州的なモータースポーツのイメージに育てよう、ってね。だからスポンサーというよりも、パートナーという考え方で取り組んだというのが正しい」

ドライビングライトのイメージに合うラリー競技からモータースポーツの世界に参入。国内のみならずWRCやRACなどの国際ラリーでも“PIAA”のイメージを浸透させていった。フロントウインドウの鉢巻きに貼られた“ADVAN”“PIAA”の自然なロゴの並びが、両者の相性のよさを物語っている。

当時のドライビングライトのメーカー(ブランド)は欧州勢が主流だった。国産メーカーには競合と呼べるような存在のない中で、山本氏は「海外のライバルはみんなモータースポーツを上手に広告塔にしている」とそのスタイルに刺激を受け、より欧州的なドライビングライトのブランドとしてPIAAを立ち上げるタイミングと呼応するようにレース(モータースポーツ)の世界にもしっかりと目を向け、当時の日本ではまだ珍しかったブランディングという観点を根底に置きながらそこに足を踏み入れていった。

「それまでレースの世界のことなんてほとんど知らなかった。はっきり言って素人でしたね。でも、何かものごとをはじめるときは素人の目線の方が役に立つことも多い。より新鮮な視点をもってものごとを素直に捉えることができるから。
PIAAがレースの世界に関わるときに力になってくれたのがYOKOHAMAさんでした。少し前にADVANブランドを立ち上げて積極的にレース活動をしていた。ある人を介してADVANの人たちと会って話をしたんです。そしたらお互いの考え方がピタッと一致してね。レーシングではなくモータースポーツのイメージにしたいということ。だからもっとシンプルでよりスタイリッシュな世界観を構築する必要があると考えていること。
互いに新参者でもあったからね。もちろんこちらに比べたらADVANはその世界のプロであり先輩だったけれど、だからといって体育会の汗臭さや泥臭さみたいなものではなく、もっと多くの人が憧れることのできるカッコよさ、分かりやすさを追い求めようという想いが自然と重なったのです」

赤と黒のADVANカラーのマシンに白と黒を基調としたPIAAのロゴは見事にマッチした。互いにシンプルさを徹底して貫いたことで、現代にまで生き続けるブランドとしての明確なカラーを打ち出すことができたのだろう。写真はF2に乗る高橋国光選手。思わず惹き込まれるようなクールな世界観がそこに写し出されている。

人の心を惹き寄せるには
まず“イメージ”が大切なんです。

「あの頃のADVANはレースではまだあまり強くはなかったけれど、芯の通ったカチッとしたスタイルでは頭抜けていた。そこにはこだわりというか、明確なカラーがあったから」と、山本氏は当時を振り返る。

「テレビCM(ASPEC)にニキ・ラウダを使ったりして、YOKOHAMAさん自体がそういうセンスというか、こだわりみたいなものが強くてね。他とは発想が違ったんですよ。人の心を惹き寄せるにはまず、イメージが大切なことを知っていたんだろうな。
ボクは見たもの聞いたものすべてに反応してしまう性格。そう、“ピンっ”とくるんですね。ADVANと出会ったときもそう。これは一緒になってカッコよさを追い求めることができる相手だぞって、すぐに“ピンっ”ときた。ロゴも互いにゴシック体で相性がよかったし、ADVANは赤と黒、PIAAは白と黒とシンプルに主張するところも一緒で、お互いのもつカラーのマッチングが非常によかった。運命的というか、ADVANだから一緒にやれたのです」

赤と黒のADVANカラーのマシンに白と黒のPIAAカラーのユニフォームを纏ったチームクルーという図式は、いま見ても素直にシンプルでカッコいいと思えるものである。40年以上前の“カラー”であっても、それが何より無駄なく潔いスタイルのものだったからこそ、いまも色褪せることない輝きを放つのだろう。

当時のADVANチームのクルーたちは白いシャツに黒いパンツという、それまでの日本のレース界では珍しかったパリッと統一されたユニフォーム姿でサーキットに立ち、周囲の注目を集めた。ドライバーのスーツもシンプルな構成で、当時のレース界を席巻した煙草ブランドのロゴが入ったチームのドライバーと並んでも、そのシンプルさが逆に目を惹いたのだという。写真は1982年の富士GC Rd.2で表彰台に並ぶ星野一義選手と高橋健二選手。

「PIAAのステッカーが大流行したんです。クルマには興味のない人までがステッカーを欲しがるほどにね。でもね、最初は誰も興味を示さなかった。ウチの社内の人間なんて特にね。
モーターショーなんかはね、会場の端のそのまた端に小さなブースを出すところからはじめたわけです。こんな端っこでどうやって勝負しようかと考えて、PIAAのロゴが入っただけのシンプルなステッカーを女の子に配ってもらうことにした。
格好はスポーティなイメージのジョギングスタイルでね。最初は『なんでこんな格好で!』って嫌がられましたよ。でも2、3日続けるとそれが話題になってステッカーを配る女の子目当てに人々がズラッと列を連ねるようになった。嫌がっていたはずの女の子は上機嫌で『このユニフォームを着て食事に行きたい』なんて言い出す始末。最初は興味を示さなかった社員まで『ステッカーください!』って。現金なものだよね(笑)
ブランディングの基本としては、まず身内にカッコいいと思わせないとダメ。それが出来なかったら他人(お客様)が欲しがるものには絶対ならない。だから内にも外にもまず、イメージをどう伝えるかが大切。それがカッコよいと伝われば、人は振り向くものだから。そしてお客様がファンになってくださる」

クルマに興味がない層までが欲しがった「PIAA」のステッカー。このシンプルなステッカーからPIAAの世界に惹き寄せられて、PIAAのモータースポーツ活動や手がける製品にまで興味を示し、やがてファンになってくれる人が多かったという。まずイメージを上手に先行させ、PIAAという存在そのものを好きにさせる。山本氏ならではのブランディング戦略である。

いまでは当たり前となったレースクイーンやショーコンパニオンという発想の走りだった。ハードよりソフト。PIAAが何を作って何を売っている会社なのかを理解してもらうことよりも、PIAAという存在自体のカッコよさをまずイメージ(付加価値)として植え付ける――それこそが、山本昭明一流のブランディングの戦略であり美学でもあった。

「中嶋 悟選手のサポートとして海外にも進出しました。F3000、そしてF1とね。海外レースはワンメイク供給でYOKOHAMAさんのタイヤではなかったけれど、もしも供給元が海外メーカーではなく他の国産メーカーだったらやらなかった。そこは義理があるからね」

中嶋選手が世界に出て行った時期は日本国内でいちばんモータースポーツが盛り上がった時期と重なり、それはどこか熱病にも似た、異様なまでの盛り上がりを見せていたのだという。“PIAA=モータースポーツ”という図式を作り上げた以上は、そこに魅せられたファンのことを考えたらその最高峰に挑むしかないと考え、PIAAは世界の頂を目指したのである。そういう、どこか突き抜けた熱度が許される時代でもあった。

「いまだから言うとF1進出は嬉しい反面、辛くもありました。F1は資金面のケタがまるで違う。部品メーカーが協賛だなんて、現物協力ならまだしも歴としたスポンサーとして入っていくのは非常に大変だった。ただ、それでも『やってやろう!』ってね。それが仕事の活力にもなったし、社員にも熱を伝えてやり切った。結果として、PIAAは世界にまでその名を浸透させた。ボクの好きなイタリアでもね、PIAAは有名なんですよ。
自分たちのブランドが世界で認められることはやはり特別なことです。だから、社員も皆が誇りをもって仕事に取り組んでくれる。仕事はエネルギーなんです。モータースポーツへの取り組みは会社にも、もちろんボク自身にも強大なエネルギーを与えてくれた。大変なこともあったけれど、やってよかったと思っていますよ」

山本氏の愛車である黄色(ジアッロ・モデナ)のフェラーリF355スパイダー。「これは芸術品。走りではポルシェに負けますよ。でもね、ポルシェだと遠巻きに眺めていたような人がフェラーリだと寄ってきて話しかけてくる。素直に『負けた!』と思うんだろうね。突き抜けた存在にはそういう、何か人を無条件に惹き寄せる力があるんです」と優しく笑う。

受け取る側が映えるものを提供する。
それが真のブランドというものです。

山本氏の功績はPIAAブランドだけに留まらない。いまもルーフキャリアのトップブランドとして人気を集めるTerzo(テルッツオ)もまた、山本氏が生み出したものだ。TerzoはPIAA、そしてワイパーのブランドとして立ち上げたSPACに続く、山本氏にとっての第三のブランドである。

「Terzoはイタリア語で3番目という意味があったのと、何より“てる”という自分の名前が入っていることに意味を見出して名付けました。ブランドっていうものはね、大抵は1つ大きく当てると、2つ目以降は外すのが怖くて逃げるものなんです。せいぜいサブブランドを作るくらいでね。その方が楽だから。ボクはね、逃げたくなかったから敢えて自分の名前を入れてイチからまた創り上げた。
当時は値段の高いルーフキャリアというのはなくってね。スキー用のものなんかは誰もが買えるように安価なのが当たり前だった。単に道具だったわけです。だからこそ、ボクは遊びでやっていたウインドサーフィン用のキャリアを作ろうと考えてとびきり上等なものをこだわって作った。マウイ(ハワイ)のトッププロだったピーター・カブリナと契約してね、いろいろインスパイアも得ながら本場の本物を作ったんです。ボクにウインドを教えてくれた人にTerzoのキャリアを見せたら『よく輸入したね』って言われましたよ。それくらい、本場に負けないこだわりを貫いて作ったということです。当時のウインドサーフィンのワールドカップの企業スポンサーもTerzoでやりました。PIAA同様に世界に向けてその存在を発信したものですよ」

「新しいマーケットを開拓するときにはね、退路を断つ気構えで本気で臨まないと。あともうひとつ、大切なのは自分のエゴだけではやらないこと。こだわりとエゴは違うものです。ボクの考えるこだわりはね、自分たちのブランドを身につけてくれた人たちが映えるものを作ること。もっと言えば『つけたい』と、人が純粋に求めてくれるものを作ること。
ADVANと一緒にやらせてもらったモータースポーツの活動も同じです。こちらから押し付けるのではなく、あくまで惹き寄せることにこだわった。それが単なるモノではなくブランドである以上はね、独自のカラーを打ち出して見る人を魅了しなければ価値は生まれない。モノが溢れるような時代だからこそ、そこに明確なカラーを打ち出せればまだまだ勝機はある。
長い時代を生き抜いてきたADVANだからこそ、この先のまた新たな時代の流れを惹き寄せるようなカラーを打ち出してもらえたら嬉しいですね」

そう言って微笑む山本氏の表情がなんとも魅力的で、思わず惹き込まれてしまうのだった。

(了)

“ADVANとPIAA”の物語

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