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追悼―高橋国光さん
国さん、YOKOHAMA / ADVANとの素晴らしい時代をありがとうございました。

2022.4.1

日本のモータースポーツシーンの黎明期から第一線を走り続け、59歳でドライバーを引退するまで国内外で数多くの名勝負を繰り広げてくれた伝説のレーサー、高橋国光さん。1980年代から90年代にかけてはYOKOHAMA / ADVANの顔としても、素晴らしい戦績、そして記憶に残る熱い走りでファンを魅了してくれました。3月16日、82歳で永眠された“国さん”への感謝と敬意の念を込めて、ADVANブランドサイトはここに追悼記事を捧げます。

Words:藤原よしお / Yoshio Fujiwara
Photography:三栄 / SAN-EI

追悼―高橋国光さん

国さんとYOKOHAMA / ADVAN
その熱き時代を振り返る。

人は彼を「無冠の帝王」と呼んだ。

そう呼ばれたのには理由がある。1958年第1回全日本モーターサイクル・クラブマン・レースでデビューウィン、ホンダのワークス・ライダーとして1961年ロードレース世界選手権、西ドイツGP250ccクラスで日本人初優勝、さらにアルスターGP125ccクラス、1962年スペインGP125ccクラス、フランスGP125ccクラスと、WGP4勝を挙げたパイオニアとしての実績を掲げ4輪へと転向。日産ワークスに所属するも、1967年、68年、69年の日本グランプリでは、優勝候補の筆頭でありながら敗退した姿が、わずか1ポイント差でF1ワールド・チャンピオンになり損ねた「無冠の帝王」サー・スターリング・モスの姿に重なって見えたからだろう。

彼の名は高橋国光。スカイラインGT-Rの50勝目、1978年の全日本F2000 JAF鈴鹿GPでの優勝など、記憶と記録に残る活躍をした、正真正銘のレジェンド・ドライバーである。

「僕はもう変わらないよ」

1980年の春、東京・青山通りにある喫茶店でレーシングカー・デザイナーの解良喜久雄と会った高橋は、そう言ったという。

この時高橋は40歳。信じられないかもしれないが、この年、高橋は全日本F2でも富士グランチャンピオン・シリーズ(GC)でもシートを失い、現役引退すら囁かれる境遇にいた。そこに目をつけたのが、若き実業家の熱意で新興チームを立ち上げることになった解良だったのだ。

そこで奇跡が起きる。失敗作として誰も見向きもしなかった型落ちのマーチ792のシャシーにムーンクラフトの由良拓也がデザインしたワンピースカウルを組み合わせて解良が作り上げたマシン、ロイスRM-1が高橋の手により圧倒的な速さを見せつけたのだ。

結果として、彼らが悲願のGCチャンピオンに輝くことはなかったが、40歳の高橋は再び国内トップドライバーの1人に返り咲いた。そしてその才能、経験、強さに惹かれ次なるステージへといざなったのが、YOKOHAMA / ADVANだったのである。

F2初期の縦横のラインが特徴的な“ADVANカラー”のマーチ802を駆る高橋国光。F2では開発ドライバーとしても活躍し、今日のYOKOHAMA / ADVANのスーパーフォーミュラでのワンメイク供給体制に通じる礎を築いた。

80年夏、TS、FPで実績を重ねてきたYOKOHAMA / ADVANは、マーチ802、トールマンTG280を購入し、日本最高峰のレースF2への参戦を発表する。そこでレギュラードライバー兼、開発ドライバーとして白羽の矢を立てたのが、高橋健二と高橋国光のベテラン2人だったのだ。そして彼らの弛まぬ努力と成果が、現在ワンメイク・タイヤとしてスーパー・フォーミュラを支えるYOKOHAMA / ADVANの原点となったのは、言うまでもない。

雨の富士GCを駆けるロイスRM-1と高橋国光。由良拓哉の手による流線的なカウルデザインに赤と黒のADVANカラーが映える、とても美しいマシンでもあった。

また82年シーズンを前にロイス・チームが解散すると、YOKOHAMA / ADVANは高橋とロイスを引き継ぎ富士GCにも進出。83年からは赤と黒のADVANカラー1色で高橋の活動を全面的にサポートすることとなる。

さらに83年に富士スピードウェイで行われた世界耐久選手権最終戦、WEC in JAPANから、千葉泰常が立ち上げたチーム・タイサンと共に高橋とYOKOHAMA / ADVANはグループCへの挑戦もスタート。それまで経験のないハイパワー・マシンにマッチングするタイヤの開発に苦労するも、85年に全日本耐久選手権でシリーズ・チャンピオンを獲得すると、翌86年に連覇、続く87年に改称した全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)でも3年連続チャンピオンに輝くと、89年にも戴冠。グループCカーレースにおいて4度のシリーズ・チャンピオンという偉業を成し遂げた。

それはまた高橋が「無冠の帝王」を返上する、レース人生において初めてとなるシリーズ制覇&連覇となったのである。

「無冠の帝王」の名を返上した全日本耐久選手権/全日本スポーツ・プロトタイプカー選手権(JSPC/1987年に改称)。ADVANカラーのポルシェ962Cを駆り、1985年から87年までの3年連続、さらに89年も含めた4度の“シリーズチャンピオン”の座を獲得した。高橋国光とYOKOHAMA / ADVANの栄光の歴史のハイライトとも呼ぶべき、まさに永遠に色あせない黄金時代である。

その後、50歳を迎えてからも高橋はF3000の活動を続けながら、高橋を師と仰ぐ土屋圭市と共にチーム・タイサンからADVANカラーの日産スカイラインGT-RでグループA(JTC)にも出場。93年の第2戦では念願の優勝も飾っている。

土屋圭市とのコンビによるグループA時代に“国さんファン”になった世代も多いことだろう。燻銀の走りで周囲を魅了し、1993年のRd.2オートポリスでは優勝も果たしている。

94年シーズンが終わると、ずっとADVANカラーのマシンで戦ってきた高橋は、54歳でF3000のシートを後継に譲った。しかしこの年の第8戦富士で記録した3位表彰台と共に、国内トップ・フォーミュラ最年長出場記録、最年長入賞記録は、今後も破られることはないだろう。

54歳まで国内トップフォーミュラを戦ったという事実だけでも十分驚かされるが、フォーミュラを降りる年に3位表彰台を獲得しているという事実こそが、高橋国光というレーサーの真の偉大さを物語る。

しかも物語はそこで終わらなかった。

高橋の働きかけもあり、ホンダはクレマー・レーシングとジョイントしてNSX GT2によるル・マン24時間参戦を94年からスタート。続く95年はオール・ホンダのワークス体制でGT2クラスに再挑戦し、コンビを組んだ土屋圭市、飯田章、マシンを手がけたノバ・エンジニアリングの森脇基恭、そして雨の中で素晴らしい速さを見せたYOKOHAMAの後押しによって、55歳で見事にル・マン・サルト・サーキットのポディウムの頂点に立ったのである。

1995年のル・マン24時間レースではホンダNSXでGT2クラスに参戦。土屋圭市、飯田章と共に見事表彰台(GT2クラス)の頂点を射止めている。YOKOHAMA / ADVANと共に走った栄光の時代の集大成ともいえる55歳でのル・マン優勝でもあった。

2022年3月16日。高橋国光は82歳で生涯を閉じた。2輪、4輪を通じて生涯のほとんどをレースの世界に捧げ、日本のモータースポーツの歴史そのものを作り上げた彼が、ADVAN、そしてYOKOHAMAのロゴと共に輝いた時代を、私たちは忘れることはないだろう。

国さん、YOKOHAMA / ADVANと一緒に走ってくれたあの素晴らしい時代をありがとうございました。

安らかにお眠りください。

(了)

(文中敬称略)

追悼―高橋国光さん

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