ニュースレター

世界一流品を目指して~横浜ゴム誕生と今日の事業の骨格を固めるまで~

2017年06月30日

発行にあたって

横浜ゴムでは報道関係者などの皆様に当社への理解をより深めていただくため、ニュースレターを発行することにいたしました。本年10月13日、当社は創業100周年を迎えます。この機会を捉え、本年のニュースレターは当社の歴史をご紹介いたします。第1号は創業から今日の事業骨格を固めるまでに焦点を当て、第2号以降では歴史的エポックとなった事業、製品、技術などをご紹介する予定です。本誌を通じ、創業以来変わらない「横浜ゴムらしさ」を知っていただければ幸いです。

2017年6月 横浜ゴム広報部

1910年代~1960年代半ば

古河財閥、ゴム産業の将来性に注目

横浜ゴムの母体となったのは横濱電線製造株式会社(現古河電気工業株式会社)だった。同社は1884年に横浜市の山田与七氏が起こした山田電線製造所を、同じく横浜市の紳商(大商人)である木村利右衛門氏らが1896年に買収して設立された。横濱電線製造では電信用パラフィン線、電灯線、ゴム被覆線などを製造しており、古河鉱業会社(古河合名の前身)は同社に裸銅線を供給していた。電線は電信、電話、一般工業用に幅広く用いられ、電気工業の発展と共に高い需要が見込まれたため、1908年、古河鉱業は横濱電線製造の株式52%を譲り受け、本格的に経営に参画することにした。さらに1914年、古河合名から横濱電線製造に出向した中川末吉(横浜ゴム第2代社長)は、ゴムを電線製造以外に応用する方途を模索した。中川はすでに欧米先進国では自動車用タイヤ、電動機用ベルト、配管用ホースなど様々な製品にゴムが使われており、日本でも今後ゴム製品の需要は飛躍的に高まると見込んでいた。

横濱電線製造本社(1910年頃)

中川末吉(1874-1957)

滋賀県生まれ。古河市兵衛に見込まれ、養女と結婚。エール大学に留学。古河鉱業会社に勤務後、1914年に横濱電線製造常務に就任。以後、横濱護謨製造の設立に尽力し、1924年に社長に就任(1939年から会長)、1946年に社を離れるまで実に23年間に渡り経営トップを勤めた。古河電工、富士電機、日本軽金属などの設立と経営にも貢献し、古河財閥のリーダーとして活躍した。

日米合弁企業として出発

当時、日本のゴム工業は技術水準が低かった。市場に出回る製品には粗悪品が多く、60%までは輸入品で占められており、中川はゴム工業に乗り出すにあたって、国内ではまだ生産できないような高級ゴム製品を作る必要があると考えた。そこに登場したのが米国の大手ゴムメーカーであるBFグッドリッチ社(以下グ社)だった。グ社は1870年に設立され米国初の自動車用空気入りタイヤ、有機加硫促進剤、世界初のカーボンブラック入りタイヤなどを開発した企業として知られていた。同社は日本を中心とする東洋市場拡充に意欲的で、横濱電線製造が工場建設を計画していることを知り、共同工場の設置案を提案してきた。両社の協議は順調に進み、1917年10月13日、横濱護謨製造株式会社(1963年横浜ゴム株式会社に社名変更)が正式に誕生した。新会社は株式を横濱電線製造とグ社が50%ずつ持ち合う、当時珍しい日米合弁企業だった。

米国BFグッドリッチ社

1870年、米国人ベンジャミン・フランクリン・グッドリッチによって米国オハイオ州アクロンに設立される。19世紀末から20世紀後半、グッドイヤー、ファイアストーン、ユニロイヤルと並び米国ゴム企業ビッグ4の1社に数えられた。BFグッドリッチ社(グ社)との提携は太平洋戦争で一時中断したが、1981年にグ社が横浜ゴムの全株式を売却するまで64年に及んだ。写真はオハイオ州アクロンにあった本社・工場(1952年頃)。

操業開始後わずか2年数ヶ月で最新工場を失う

新会社は近代的工場の建設を計画し、1917年12月に横浜市平沼町(現在の横浜市西区)に敷地を確保、翌年7月からグ社派遣の米国人技術者指導の下で平沼工場の建設に着手し、1920年末から本格操業を開始した。新工場が世に送り出した高級ゴム製品の代表例として角耳ベルト、コードタイヤがあげられる。角耳ベルトは電動機の軸に取り付けられる伝動ベルトで1921年に開発した。耐久性に優れるため当時の紡績業界はこぞって皮革ベルトからゴムベルトに変更した。角耳ベルトは国内だけでなく、グ社を通じて米国やイギリスにも広く普及した。コードタイヤは、同じく1921年に当社が日本で初めて製造したタイヤで、従来のファブリックタイヤに比べて寿命が3倍に伸び、その後のタイヤ構造の主流となった。こうして順調に滑り出したかに見えた平沼工場だったが、同工場は1923年9月1日に発生した関東大震災によって、わずか2年数ヶ月の操業をみただけで全壊してしまった。

平沼工場全景

平沼工場製第1号コードタイヤ

世界恐慌の中で船出した横浜工場

平沼工場に代わる主力工場である横浜工場が横浜市鶴見区に竣工したのは、震災から5年後の1928年12月のことだった。最新製造機械を備えた横浜工場では、1929年からVベルト、編上げホース、ゴムライニングなどの工業用製品、1930年からはタイヤの生産も開始した。しかし時代は厳しい状況にあった。1929年10月にニューヨーク株式が大暴落し世界大恐慌が始まり、1930年には日本も昭和恐慌による大不況に陥った。しかし1931年の満州事変以降、軍用自動車の需要が盛んとなり、1933年には国内の自動車メーカーも設立され、それに伴いタイヤ需要も激増していった。

横浜工場全景(1934年頃)

1930年代のタイヤ販売店

戦前の急成長と空襲による横浜工場の崩壊

世界恐慌の後、欧米列強国は保護主義、ブロック経済化を進め国際緊張が高まった。日本も1937年に日中戦争、1941年に太平洋戦争に突入し、経済は軍需中心に変わった。1937年、生ゴム輸入統制が始まり民需用ゴム輸入が制限され、1938年には生ゴム、その後はカーボンブラックの配給統制も始まった。こうした中、横浜ゴムでは軍用機用タイヤ、戦車用タイヤなどの軍需用タイヤの生産が急増。旺盛な需要に応えるため横浜工場は、1944年まで3次に渡る拡張を行い、1944年には新たに設置した三重工場で軍用機用タイヤの生産も始まった。海外では満州、中国、朝鮮、シンガポール、ベトナムなどにタイヤ、ベルト、ホースなどの生産拠点を設置した。戦争拡大による急成長により、1944年の当社年間売上高は1930年に比べ約10倍に拡大した。しかし太平洋戦争激化により戦火は激しさを増し、1945年、2度に渡る米軍の空襲によって横浜工場は全壊し操業不能に陥った。さらに終戦によって海外の生産拠点も全て失うこととなった。

1937年発売の「Y型トラックタイヤ」(左)とヨコハマタイヤが使用されたゼロ式戦闘機(右)

空襲で全壊した横浜工場(1945年)

平塚工場を中心に多分野に進出

戦後は再びゼロからの出発となった。横浜工場の再建も検討されたが、将来的な拡張を考慮してより広大な土地を確保することとし、神奈川県平塚市に横浜工場敷地の約2.4倍に当たる8万坪の土地を取得、1950年に総合工場の建設に着手し1951年末から操業を開始した。一方戦争による技術の空白を埋めるべく、戦時中に途絶えていたグ社との提携を1949年に再開。さらに先端技術を導入すべく米国エイロクイップ社、米国PRC(プロダクト・リサーチ・カンパニー)などと新たに技術提携した。また原材料である合成ゴムを生産するため、1950年に古河電気工業、日本軽金属株式会社との共同出資で日本ゼオン株式会社を設立した。こうして生産基盤・技術力の強化を図り、日本経済が力強く復興への道を歩み始めた1955年、社長交代を機に事業多角化に向けた積極経営を進めた。この結果、取り扱い製品はタイヤ、ベルト、ホース、接着剤、航空部品、フォームラバー(クッション材)、ビニール(パイプ・ビニール製品)などに広がっていった。

操業開始当時の平塚工場(1951年)

平塚工場はその後平塚製造所と改名され、現在も続く横浜ゴムの主力生産・研究開発拠点となっている。

左は角耳ベルト(1951年)、右はチューブレスタイヤ「ハマセーフティ」の広告(1955年)

左は農業用ビニールハウス(1952年)、右は寝具用クッション材の広告(1960年代前半)

ビニール、クッション材事業は共に1960年代半ばに撤退。

経営の合理化により今日の事業の骨格を固める

しかし高度経済成長期は景気変動の波が大きかった。1950年代半ばから1960年代半ばにかけて、数年ごとに好不況が循環した。1965年から始まった40年不況によりタイヤ、工業品とも需要が減少し価格低下が止まらなくなると当社は深刻な経営危機を迎えた。この危機に際して、フォームラバー事業から撤退を決め、工場閉鎖、人員スリム化などの合理化を実行した。こうした合理化によって経営再建を図り、タイヤ、ベルト、ホース、接着剤、航空部品という今日の主力事業の骨格を固め、その後、いざなぎ景気やモータリゼーション化の波に乗り、当社は業績を伸ばしていった。

*次号では、1980年に開始したADVANを頂点とした「スリーブランド戦略」による国内乗用車用タイヤ販売事業をご紹介する予定です。