2025年4月30日
ショップブログ
さよなら松阪店 我が青春のアルカディア ~サラリーマン店長の反省~ ver0.5

僕にとってタイヤガーデン松阪店というのは、人生そのものだったと言える
この20年近い、サラリーマン人生を振り返っても、ほとんどが松阪店との事ばかりだ。
自分が大学を卒業し、就職したのは2006年。
入社した会社は三重ヨコハマタイヤ販売株式会社。
もう今では存在しない、地方のローカル企業だ。
1983-84年生まれ組の僕らは、就職氷河期世代の末期。
地元の文系私立大の国文学科を卒業した僕の周りは、教職をとるものが多かったが、その公務員倍率は数十倍とも数百とも言われた時代だった。
僕はといえば、小学校教師だった母親を幼いころから家庭で見ており、教職がいかに激務かを知っており、最初から教職課程の履修は放棄して卒業までの最短コースをとっており、
最初の2年間でほぼ必要な一般教養の単位を取得してからは、あとの2年間はひたすらにモラトリアムを謳歌していた。
その時に出会った趣味が車だった。
これは方々でよく話すネタだが、僕は車の免許をとって自分で車を運転できるようになるまでは、車は嫌いだった。
何故ならば、昔から三半規管が弱く、車酔いが激しかったからだ。
長距離の車移動などは常に酔い止め薬が必須で、それでも何も無いと酔うので、車で家族旅行の時は父が工夫して
セダンの後部座席に向けてカラーモニター(ブラウン管である)と8mmカメラを搭載し、子供の向けアニメ映画をひたすら再生して気を紛らわせたりもした。

だから基本的には車に乗るのは嫌いで、興味も全くなかった。
中学から高校生時までは自作PC趣味にはまっていたが、当時入り浸っていたBBSサイトで車の話題が出ても全くついていけなかった。
BMWがドイツの高級車メーカーという事さえ知らなかった。
しかし、車の免許をとって自分で車を運転してみると、普通の運転なら全く酔わない事が分かった。
最初は原付から始まり、自分の意志で何処までも遠くへ行ける原動機付の乗り物のすっかり魅せられてしまった。
丁度、その時に出会った大学の最初の友達が、かなりの車好き一家(父親が元ラリードライバーで、叔父がプロのライダーだったという)で、
その影響を強く受けた事も大きい。
時代はおりしてもインターネットによる情報大爆発な時代で、僕は初めて触れる「自動車」という概念に、乾いたスポンジが水を吸い込むように知識を吸収していった。
この時に、バイト代で買った車(スバル ヴィヴィオT-top)を、独学で自宅エンジンスワップや、簡単なヘッドOHまで行うようになっており、
高校までの自作PC趣味から一転、インターネットでも車系コミュニティにシフトしていった。
その流れから、就職先を車系になっていくのは必然だった。
ただ、車に興味を持った時点で、自分がいたのは文系大学の国文学という文系オブ文系で、そこからなれる車系業種はセールス職だけであった。
そして、色々な偶然が重なり、2006年春。
僕は前述の三重ヨコハマタイヤ販売へ、セールス職として入社するのであった。
三重ヨコハマタイヤ販売というのは、基本的に卸売の会社で、県内の自動車関連企業にヨコハマタイヤを卸すのが主な業務だった。
しかし、この会社は自前でサービス部門を持っており、タイヤの入れ替え作業も担っていた。
それが三重ヨコハマの子会社である(株)ヨコハマタイヤサービス(YTS)であり、この時代頃から全国的に始まった直営店拡大戦略により、YTSは三重の直営ガーデンを運営してゆく会社になってゆく。
(僕が入社する前年に鈴鹿店が生まれ、入社後に伊勢店、松阪店と次々とオープンしていった)
三重ヨコハマには、「セールスマンはタイヤ交換作業を習得できていなければならない」という伝統があり、その為に新卒で入った新入社員たちは、まずはサービス部門に配属された。
この時、僕の同期は5人いたが、他の同期が各地域の営業所に配属されたのに対し、僕が1年目に配属されたのはタイヤガーデン津店だった。
この事が、他の同期とは全く違う運命を辿っていく事になった。
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