Grip the Soul

“信頼”を糧に職人の心意気貫く
トップチューナーの生きかた。

2023.9.29

Kansaiサービス、向井敏之。日本のチューニングカーシーンを支えた男といって過言ではない。1980年代はモータースポーツ活動と谷田部の最高速に明け暮れ、国産車としては初の200マイルオーバーカー(323.159km/h)をつくり上げた。その後、現在に至るまでサーキットで残した記録も数知れず。しかし彼のモノづくりの真骨頂は、飛び道具的なモンスターマシンではない。ユーザーに寄り添う高性能なストリートチューニングカーである。そんな向井敏之の活動に共感し、互いに信頼しながら支えてきたのがYOKOHAMA/ADVANだった。

Words:中三川大地 / Daichi Nakamigawa
Photography:安井宏充 / Hiromitsu Yasui(Weekend.)

日本のチューニングカーシーンを
牽引してきた、向井敏之の素顔。

どことなく純朴で、人懐っこい印象が漂う。職人にありがちな気難しさを感じる顔ではない。しかし、運転席に腰掛け、ぶ厚い掌と太い指でシフトノブを握って前を見つめる姿には、どこか精悍さがみなぎり、そこに確固たる意志の強さも感じさせる。

「たとえ夜中でも雨が降ってくると、“ちょっと走ってくる”って女房に言って、名阪国道に行くんです。このタイヤは水捌けがいいとか、あらゆる表情を感じ取るために。今ではメモを取らなくても、自分の声をスマホに録音できるようになったから、便利になりました」

向井敏之(むかい・としゆき)率いるKansaiサービスは、三重や奈良の山あいを横断して名古屋と大阪をつなぐ名阪国道沿いにある。この辺鄙な場所は、彼が生まれ育った故郷であり、そして当時はその山あい全体がテストコースだった。今もなお、荒れた路面や轍が点在する名阪国道は、クルマやタイヤを見極める格好の試乗コースになっている。

Kansaiサービスの向井敏之代表は学生時代に経験したモトクロスでチューニングの魅力に染まり、その後、レーシングファクトリーやプロショップで修行を積んで独立。創業は1982年。その後、HKSやYOKOHAMA/ADVANと手を取り合いながら、ストリートチューニングカーの理想像を追い求めてきた。

歴史を紐解くと、Kansaiサービスの功績は数限りない。発足当時のツインパワー、そしてその後のエッチ・ケー・エス関西サービス、そしてKansaiサービスと時を追うごとに屋号を変えながら、この地で40年以上も日本のチューニングカーシーンを牽引してきた。ダートトライアルやレース、そして伝説となった谷田部での最高速テスト、そしてサーキットアタックなど、数々のイベントやメディア企画で記録を残してきた。

しかし、向井は究極的なコンペティションの世界だけを追い求めてきたわけではなかった。

KansaiサービスはHKSが推奨する販売店であるパフォーマンスディーラーとして長年認定(写真右)されている。長年の協力体制によるものであり、またHKS側がKansaiサービスの技術力を認める証でもある。優秀な売上によりHKS側から表彰されることも多い。

軸となるのはストリート──。
それがチューナーの仕事である。

「お客さまは決してレーシングドライバーではない。そして私たちは、そんな方々に対してストリートカーをつくっている。コンマ1秒を削るために何もかもを犠牲にするような世界とは違うんです。タイムが出るからといって、街中で我慢を強いられるばかりの硬い足ではダメだし、また出力を追うがあまりピーキーすぎてもいけない。乗りやすさ、快適性、居住性、そしてドライビングの楽しさなど。上質なストリートチューニングカーを追い求めたら、あらゆる二律背反する要求性能が立ち塞がる。その中でお客さまのご要望にお応えすることは相当に難しい。だけど、そこに挑むのがチューナーという仕事だと思う」

そのためにはユーザーの声を真摯に受け止め、自分自身でもテストを欠かさない。「チューニングとはデータの積み重ねと分析に始まり、そこから新しい発想や回答を導き出すもの」だと、膨大な過去のデータを見ながら教えてくれた。特にサーキットを走る際は、あらゆる情報をすべて計測してファイリングしているのだという。それはユーザーカーもまた同じ。すべてのクルマに「カルテ」を作成することで、ユーザーに寄り添うクルマづくりを心がけてきた。たとえオーナーが代わっても、過去の情報は一目瞭然となる。

サーキットでテストをするたびに、あらゆる情報をすべて記録しファイリングしている。こうしたデータ主義は、モータースポーツでの経験によるもの。ユーザーに対してもクルマごとに「カルテ」を用意して、クルマのヒストリーや情報が一目瞭然になるように工夫している。

このデータ主義はモータースポーツで培われたものだ。もともと向井はレース畑で育った。高校時代はモトクロスとそのチューニングに明け暮れ、やがてレースファクトリーで働くようになる。自らのファクトリーを立ち上げた際も、最初は会社を上げてダートトライアルやラリー、そしてレースへの参戦を続けていた。

「当時、会社の売上は順調に伸びていたんだけど、中間決算したらエラい赤字でね。スタッフにボーナスを出すことができなかった。その時に“このままじゃダメだ”と思ったんだ。自分が好きでやっていた挑戦が、結果としてスタッフ全員に迷惑をかけていた。自己満足のためにみんなを巻き込んでしまったんだと。だから競技への挑戦はその年でピタリと辞めました」

向井は常に人に寄り添って生きてきた。その対象がユーザーであることは大前提で、身内のスタッフであっても親身になった。そしてスタッフは彼の想いに共感し、同じ方向を向いて成長を続けてきた。だからこそ今では誰もがKansaiサービスに全幅の信頼を寄せる。

300km/hオーバーの世界を
支えたYOKOHAMA/ADVAN。

人に寄り添うクルマづくりという意味で、欠かせないピースがタイヤだった。向井率いるKansaiサービスに、40年近く寄り添ってきたのはYOKOHAMA/ADVANである。彼とYOKOHAMA/ADVANとの付き合いは、パジェロの機構を移植して4WD化したスタリオン時代に始まる。「些細な行き違いで某タイヤメーカーと訣別したあと、すぐにYOKOHAMA/ADVANが手を差し伸べてくれた」と、彼はいつも感謝を口にする。

今から約40年前に、向井とYOKOHAMA/ADVANとの付き合いは始まった。当時は4WD化したスタリオンでラリーやダートラ、そしてサーキットアタックに挑戦する日々だった。

その後、運命に導かれるように傾倒したのが最高速チャレンジの時代だ。向井は主軸をストリートへと移していたが、それでも己の技術力を研鑽するため、最高速への挑戦を開始した。

日本のチューニングカーシーンに数多くの伝説を残した谷田部の最高速テストである。時は1988年。向井はユーザーとの協力のもと、Z20型ソアラを用意した。3.0ℓ直列6気筒ツインターボ(7M-GTEU)をフルチューニングして、到達した速度記録は323.159km/hへ。それは国産車として初の200マイルオーバーカーとなった。

フルチューニングといっても、そこには向井ならではのこだわりがある。それは「日常で気兼ねなく使える仕様」であること。過激な最高速マシンとはいっても、エアコンを効かせて谷田部まで楽々自走で往復できる。普段使いだってなんら気苦労を与えない。そうしたパッケージの中で達成した323.159km/hは、なし得た数値以上に価値があると思えた。そしてそれは、Kansaiサービスのコンセプトを見事に体現しているものだった。

主軸をストリートチューニングに置きながら、己の技術力向上のために挑戦を続けた谷田部の最高速テスト。1988年にソアラ MZ20 改3.1ℓTO4E TWINという仕様で323.159km/hを記録。国産車として初の200マイルオーバーカーとなった。※写真は2ℓの最高速仕様。

当時、誰にとっても300km/hは未知なる領域だった。試行錯誤を続ける中で、大きな課題はタイヤだった。当時、実績のある欧州製老舗ブランドを使っていたが、それでも1周アタックするごとに交換を強いられていた。内圧が上がりすぎたり、時に過度な熱を持ってバーストの危険性まであったという。そうした中で突如として登場したのが「YOKOHAMA A.V.S T-30」だった。A.V.Sはもともと快適さを追求したシステムブランドだったが、のちのADVAN Sportに繋がるような高速巡航性能を見据えた銘柄である。ここに組み合わせたA.V.S VS6ホイールの性能も手伝って、Z20型ソアラを不安なく安定的に300km/hオーバーへと誘った。

互いに呼応し、ともに成長する
最強のストリートスポーツタイヤ。

当時から今に至るまで、YOKOHAMA/ADVANブランドから生まれるスポーツタイヤのすべてを、Kansaiサービスはプロショップとしてテストしてきた。NEOVAで言えば初代からすべて向き合ったという。次第にYOKOHAMA/ADVANの開発サイドも向井に意見を求めるようになり、またタイヤ開発自体も率先して協力をするようになった。

「あれはNEOVA AD08の開発の頃だったかな。うちのデモカー(ランサー・エボリューション)でテストをしたいというので、サーキットへ持っていきました。ヘタリや耐摩耗性まで見据えたロングスティントだというから、エンジン保護のためブースト圧を抑えて走ろうとすると、開発陣営から“それじゃテストにならない”と一蹴されました。フルパワーで行ってくれ、と。案の定、最後にコンロッドが折れてエンジンは壊れてしまいました。だけど、そこに憤慨する感覚はなく、むしろ身が引き締まりました。これが開発陣営との真剣勝負なんだ、と、妙に清々しい気持ちになったのを覚えています」

1990年代後半から現在に至るまで、Kansaiサービスはサーキットアタックも積極的に挑戦している。それらのチューニングカーはストリートからサーキットまで全方位的に使えることから、YOKOHAMA/ADVANのタイヤテストカーとして活躍するようになった。

通り一辺倒のサーキットテストだけではない。向井は普段から下駄がわりのごとく、生活をともにすることを欠かさなかった。冒頭のエピソードはまさにそれを象徴する。

「ポンポンと新品タイヤを入れ替えるような使い方なんて、ほとんどの人はできないでしょう。一発のタイムよりもどれだけ長持ちするか、それが私たちには重要なんです。少なくとも雨が降ろうが自走でサーキットを往復できるタイヤを求めたい。そうした意味で歴代のNEOVAはすべて、その要求にちゃんと応えてくれました。それに私たちがタイヤの売上を心配するくらい、お客さまの誰もが1セットを長いこと履いてくれています」

耐摩耗性の高さ、ブロックの強度、そしてウェット性能など、歴代のNEOVAは、向井の考えるチューニングカーと、それを楽しむライフにピタリと一致したようだ。その性格をさらに深掘りするため、あえて摩耗限界まで走って性能の落ち幅を見ることもある。一般ユーザーのリアルな使い方に即したテストを繰り返し、ネガを発見すれば臆せず開発陣にぶつける。

「言い争いや喧嘩をしたことだってありますよ。でも、自分たちの意志を伝えなければ始まらない。それに、YOKOHAMA/ADVANは要求に対して真摯に受け止め、結果にしてくれました。最新作であるNEOVA AD09は、現在進行形でその感触を確かめています。今のところNEOVAの方向性を踏襲したまま、全体的に性能が底上げされているという実感があります。もちろん課題が浮かび上がったら、即座に開発陣に訴えますよ。未来のためにね」

絶大な信頼関係を持って
未来へ向かって歩み続ける。

向井が愛でる2台のGT-R(BNR32、R35)には、ともにADVAN NEOVA AD09が装着されている。驚くほどクリーンな状態に保たれた2台だが、決してショールームに飾り立てられる類ではなく、普段使いからサーキット走行まで難なくこなすチューニングカーだ。そしてNEOVA AD09の現役テストマシンでもある。もちろん、タイヤ&ホイールサイズや、それぞれの空気圧など、彼ならではの工夫を取り入れつつ、その情報をユーザーへと提供できるよう備えている。

Kansaiサービスのデモカーであり、向井自身の愛車として20年近く連れ添ったスカイラインGT-R(BNR32)は、最新のNEOVA AD09を装着する現役のテストカーでもある。「ストリートで扱いやすくて楽しい」をコンセプトにHKSの製品を駆使したエンジンチューニングと、そして自社製品を多用した足まわりの構築、ボディ補強がなされている。ボディカラーは往年のハコスカをイメージして初代NSX用のシルバーへと改められている。年式を感じさせないコンディションながらも、どこか全開で走る姿を喚起させる独特のオーラが印象的だった。前後ともADVAN Racing TC-4ホイール(9.0J×18インチ)に、255/35R18 94WのADVAN NEOVA AD09を装着する。NEOVA AD09の開発車両を担った現役のテストカーである。

この2台を嬉しそうな眼差しで見つめる向井敏之は、そして彼自身を含め彼の背中を見て育ったスタッフ全員で支えるKansaiサービスは、紛れもなくトップチューナーである。そして彼らの薫陶を受けたチューニングカーは、これからも弛まず未来へ向かって走り続けるに違いない。そんな彼らと絶大な信頼関係で結ばれているYOKOHAMA/ADVANは、その活動に寄り添うように、今日も一歩づつ成長している。

MY17の日産GT-Rを基に構築された「Kansai R35 スーパーストリート」。HKSインタークーラーキット(GT1000spec)を中心とする冷却系や吸排気系、そしてKansaiサービスが構築したECUチューニングなどによって最高出力は620psへ。耐久性を損じないよう無理なくブーストアップすることで、その潜在能力を引き出した1台だと言える。それを受け止めるため、KansaiサービスがR35の発売早々から開発を開始した前後のLSDを装着。さらにフロントを25mmほど拡張するワイドフェンダーへと置き換え、前後同サイズ(295/35R20)サイズのADVAN NEOVA AD09を装着する。

(文中敬称略)

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