SPECIAL PRE-OPENING ARTICLE

織戸 学
Get Back ADVAN
憧れは、色あせない / 後編

2021.12.09

12月25日(土)にリニューアルオープンを迎える「ADVANブランドサイト」。そのプレオープニング版では、“ミスターADVAN”こと織戸 学に、「ADVANに憧れ続けてきた理由」を全3編(前編・中編・後編)に渡って熱く語ってもらう。最終回となる後編では、「ADVAN」という存在に織戸 学が見出した、「魂」の在り処に触れる。

Words:高田興平 / Ko-hey Takada(Takapro Inc.) Photography:田村 翔 / Sho Tamura

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憧れは、色あせない / 後編

自分は自分の道を走り続けるだけ――
そう思えば、悔いなく人生を踏み抜ける。

GT500で2勝目を挙げた2005年(この年、JGTCからSUPER GTに名称変更)のシーズンは、スーパー耐久でも怒涛の7連勝で2度目のシリーズチャンピオン(ADVAN DENAG GT3)に輝き、さらにはD1グランプリにも参戦するなど、レーシングドライバーとしての織戸 学にとって、それはひとつのピークとも言えるシーズンだった。

「確かにノリにノッていたシーズンだったし、他にも楽しいことがたくさんできる時期でもあった。(ドリフトの)D1もそうだし、雑誌やビデオの仕事も破茶滅茶だったけれど、本当に充実していたんだ。でも、その頃からかな、レーシングドライバーとしての『エンド』みたいなものは、常に意識しはじめるようにもなっていた」

当時、ドライバーとして台頭しはじめていた谷口信輝(スーパー耐久での7連勝記録はその谷口とのコンビで打ち立てた)の存在も、織戸に次の領域を意識させるきっかけのひとつであったという。同じ走り屋上がりでYOKOHAMA / ADVANにも所縁のある、何より天性の“スターの資質”を持ったドライバーの出現は、30代も中盤に差し掛かっていた織戸に、何かを感じさせるに十分なものがあった。

「土屋さんが登場して10年経った頃にボクが現れて、そしてそこからまた10年経った頃に谷口が出てきた。ほんと、不思議な巡り合わせだよね。しかも揃って走り屋の出身で、ADVANにも深い関わりがあるっていうんだからさ、これはもう運命的だと思ったものだよ。
だから、その頃のボクは谷口と組んでGT500を走って、YOKOHAMA / ADVANとして勝利したいと本気で願っていたよ。走り屋上がりがコンビを組んでハコのトップカテゴリーで勝つっていうのは、漫画みたいで格好良すぎでしょ!ってね」

実際、織戸のその想いは実現の一歩手前までは行くことはできたのだというが、最終的にそれが形となって結実することは叶わなかった。

「それでも不思議と悔いは一切なかったね。なぜなら、その頃は人生そのものを迷いなく常にゼンカイで踏み抜けていたと言い切れるし、そうやって自分の中でさらに上の意識を掴むことができたからこそ、現在の自分があるとも断言できるから。要はさ、たとえこの先にどんなステージに立つことになったとしても、オレは常に自分の道を走り続ければいいって、ようやく気づくことができたんだよね」

“SUPER GT元年”となった2005年のSUPER GT第1戦・岡山で、織戸は通算2度目となるGT500での優勝を遂げた。マシンは#25 ECLIPSE ADVAN SUPRA(TEAM ADVANツチヤ)だった。表彰台の頂点に登る織戸の表情が最高の輝きを放っている。(Photo:三栄)

レーシングドライバーって肩書を
ボクは一度も自分の名刺に入れたことがない。

自身のブランドである“RIDOX”のエアロパーツを纏った真紅の80スープラで走る織戸 学の姿はまさしく、“ヒーロー”のそれである。これほど赤いスポーツカーが似合う男も珍しいと思えた。そう、放つオーラが違うのである。

「若い頃は赤いクルマに乗る自信なんてなかった。きっかけは自分の80スープラのオールペン。それまで青だったものを思い切って赤にしてみたんだ。もう1台の90スープラは最初から赤を選んだよ。自然と『織戸は赤だ』って、最近では自分でも言い切れるようになったんだよね」

この記事のために横浜の港で織戸と彼の赤いスープラ2台を撮影していると、その場を通りすがったワゴン車に乗る外国人の男性が「MAX ORIDO!!!」と、窓を開けて叫びながら、嬉々たる表情でサムアップしてくれた。

そう、織戸 学、そして彼の通り名である“MAX ORIDO”は、いまや間違いなく“世界”に通じるヒーローとなったのである。

「ボクはこれまで、自分の名刺に『レーシングドライバー』って肩書を入れたことが一度もないんだ。おそらく、何かひとつの世界に縛られることを本能的に嫌ったからかもしれないね。自分にはやりたいことはまだまだある、できることもたくさんある、ってね。50歳を越えたいま、そういう気持ちが改めて強まってきているんだよ」

織戸の愛車である2台のスープラは、共に赤いボディカラーを纏っている。ホイールやエアロパーツは黒く塗られていることから、その佇まいはまさに“赤と黒のADVANカラー”を彷彿させる。

タイヤとは生き物であり
そこには明確な魂が感じられる必要がある。

織戸は土屋圭市の手伝いという形からYOKOHAMAのタイヤ開発に関わりはじめ、土屋が他社に移ってからは、開発ドライバーの大役を担うことになった。2021年12月9日に発表される ADVAN Neovaの最新作「AD09」の開発も、織戸の主導で進められた(開発の裏側は今後このGet Back ADVANでも詳しくレポートする予定)ものだ。

「AD07から担当したADVAN Neovaの開発でボクが一貫してこだわってきたこと。それはクルマ好きの人がストリートで乗って素直に『気持ち良い』って感じてくれるタイヤにすること。もちろん新しいAD09でも、そこにいちばんこだわった。
時代の要請というか、マーケティングとか環境対応みたいな要件までを含めると、スポーツラジアルの開発も年々難しいものになってきている。YOKOHAMAの開発チームの考え方にもだから、スタート当初は戸惑いを感じるような部分もあった」

「レーシングタイヤとスポーツラジアルでは求められる意味合いが明らかに違う」と、織戸は真っ直ぐな目で言う。そして、「タイヤとは生き物であり、そこには明確な魂が感じられる必要があるんだ」とも。
サーキットでのラップタイムの向上に象徴される「数値的な優劣」ばかりに囚われていってしまうと、その「生きた魂」は失われてしまうと、織戸は続けた。

12月9日に発表されるADVAN Neovaの最新作「AD09」の開発テストにて。谷口信輝や横浜ゴム開発チームと共に、タイヤという生き物に魂を吹き込むことに全精力を注ぎ込んだ。その舞台裏のレポートは12月25日(土)に本ローンチする「ADVANブランドサイト」にて公開予定である。(Photo:小林邦寿)

「タイヤが転がりはじめた瞬間、ひとつめの交差点を曲がった瞬間に乗り手が感じる心地良さって、想像しているよりも遥かに大切なものなんだ。『さあ、いまから走りに行くぞ!』ってワクワクした気持ちにさせてあげられるタイヤ。アクセルやブレーキのペダル、そしてステアリングから直に伝わってくる生きたグリップ感。そういうものを、きちんと乗り手の感性、もっと言えば魂のような部分にまで自然に伝えていくことのできるタイヤ。
AD09の開発に際しては確かに難しさもあったけれど、テストを繰り返すうちに開発チームにも想いが伝わっていって、最後は『これがADVANだ!』って、チームの全員が納得できる仕上がりになったと思うよ。来年2月の発売を楽しみにしてほしいな」

「ADVAN」という存在に憧れてドライバー人生を走りはじめた少年は、長じて現在、「ADVAN」という存在がその奥底に秘めた魂の部分を、より多くのファンに向けて伝えていくことに情熱を注いでいる。

「結局のところ、ボクが世界一の『ADVANファン』ってことなんだ。だからこの先もずっと変わらず、ADVANという存在に憧れを抱き続けていくつもりだよ」

そう言って少年のように目を輝かせて笑う織戸 学の姿は、なんとも言えず格好良く見えた。

(了)

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織戸 学

1968年千葉県船橋市生まれ。ドリコンGP初代グランドチャンピオンを獲得後、1991年に富士フレッシュマンレースでデビュー。その後、全日本GT選手権(JGTC)/SUPER GT(GT300/GT500)、スーパー耐久、ル・マン24時間レース、NASCARウィンストンカップ(現スプリントカップ)、D1グランプリなど多種多様なカテゴリーに参戦。1997年(JGTC)と2009年(SUPER GT)にはGT300クラスでシリーズチャンピオン、2002年と2005年にはスーパー耐久でシリーズチャンピオンに輝いている。現在もSUPER GT / GT300クラス、スーパー耐久 / ST-Zクラスなどに参戦する傍ら、レーシングシミュレーターやパークトレーニングを通した“ドラテク向上”の指導活動にも積極的に取り組むほか、YOKOHAMA / ADVAN製品のチーフ開発ドライバーも務めている。

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