SPECIAL PRE-OPENING ARTICLE

織戸 学
Get Back ADVAN
憧れは、色あせない / 中編

2021.12.03

12月25日(土)にリニューアルオープンを迎える「ADVANブランドサイト」。そのプレオープニング版では、“ミスターADVAN”こと織戸 学に、「ADVANに憧れ続けてきた理由」を全3編(前編・中編・後編)に渡って熱く語ってもらう。その中編となる今回は、織戸 学ならではの「プロ意識」の本質が明かされていく。

Words:高田興平 / Ko-hey Takada(Takapro Inc.) Photography:田村 翔 / Sho Tamura

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憧れは、色あせない / 中編

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ドライビングの“腕”を磨くためには
ひとつずつ経験を積み重ねるしかない。

「ジムカーナはやってよかったと思うよ。中古だけどSタイヤの扱い方も覚えられたし、サイドブレーキも使えるようになった。テクニック――要は腕っていうものは、時間をかけてそれ自体と向き合いながら磨いていくものだって、ジムカーナから教わったよね。千葉県内の大会でもさ、何度か優勝したんだよ」

高校、そして整備の専門学校時代は2輪で走ることに明け暮れた織戸 学は、“ドリキン”こと土屋圭市の姿をひとつの目標に定めて、本人曰く「土屋さんのスリップストリームに入るかのごとく」AE86でドリフトの世界へと足を踏み入れることになる。

しかし、買ったばかりのAE86をいきなりぶつけてショックを受け、さらには街中で易々とスピンターンをキメる仲間の姿に触発されてはじめたというジムカーナは、“クルマを操る”ことの基礎を身体に覚えさせるのに、大きく役立っていった。そしてその成果は、雑誌「CAR BOY」主催のドリフトコンテスト(ドリコンGP)で初年度グランドチャンピオンを獲得するという形で、見事に結実するのだった。

「当然ジムカーナの経験も役に立ったし、その前にずっと2輪で走り込んでいたから、他の連中よりスピードのセンスもあったんだろうね。そこまでの準備がきちんとできていたからこそ、チャンピオンになれたんだと思っている。
ともあれ、ボクはその頃はまだヒーロー願望の塊みたいな小僧だったから、チャンピオンとしてお立ち台に上がった瞬間はゾクゾクしたよね。あの場所から眺める景色は、本当に素晴らしかった」

そしてこのチャンピオン獲得は、また違った側面でも織戸の運命に大きく作用するものであった。織戸が生まれてはじめてのチャンピオンの称号を得た決勝大会の審査委員長を、スケジュールの都合で欠席した土屋圭市に代わり、坂東正明が務めていたのだ。

後の織戸の“師”であり、SUPER GTシリーズの代表として日本のレース界を牽引することになる“親分”と、その素晴らしい景色の中で出会ったのである。

「コンテストの賞品が100万円相当の中古車だったから、新たにAE86を手に入れて(当時乗っていた180SXは売ってパーツを購入)、それをレースカーにしようと考えたんだ。もちろんレースカーなんて作ったことはなかったから、坂東商会でずっとレース活動をしている坂東さんに一度相談してみようって思った。この先に進みたいと考えていた4輪のレーサーの道に関しても、きちんと相談してみよう、ってね。いま考えるとずいぶんと敷居の高い世界だったけれど、そのときはレースがやりたいって想いの方が遥かに勝っていたよね」

「ドリコンGP」グランドチャンピオンの賞品として手に入れたAE86をレースカーに仕立て、富士フレッシュマンレースにデビュー。参戦2年目となる1992年には、NA1600クラスでシリーズチャンピオンを獲得している。

「オレはプロにはなれない」って
ずっと思っていたんだよ。

東京・町田にある坂東商会を訪ねて行くと、約束の時間になっても坂東が会社に戻ってくることはなく、夜の11時になっても現れないということが5、6度ほど続いたのだという。それでも、織戸は「坂東さんに会ってもらおう」と千葉から町田まで通い詰めた。

「やっと会ってもらえたときに坂東さんに言われたんだ、『オレはお前を試したんだよ。どれだけ根性があるか、それを試すためにワザと待たせて会わなかった』ってね。でも、後になってよくよく聞いたら、単にパチンコで台が当たってしまって戻れなかっただけらしいけど(笑)」

今よりもずっと大らかで、何より人の気持ちがもっともっと熱かった時代の話である。そして、まだレースの世界が多くの夢と希望に満ち溢れていた時代でもあった。

「レースがやりたいという想いを真っ直ぐに伝えさせてもらって、『お前が本気ならオレが面倒見てやる。その代わり、ご両親と今働いている整備工場の社長さんを納得させて来い』と言われた。そして、ボクは1991年の正月に坂東商会に入れてもらった。
本当はメカとして働きながら勉強したかったのだけれど、坂東さんから『お前はもっと知り合いを作れ』って言われて営業をやらされた。そのときは『営業なんて嫌だな……』って思っていたけれど、いま思うとあの頃の経験が、こうして現在の自分の仕事(独自のボディキットの制作・販売やレーシングシミュレーターのビジネスなど)にもつながってきたわけだから、坂東さんの人の本質を見抜く目って、本当にすごいなって思うよ」

坂東商会に入社すると仕事を含めた生活そのものは過酷を極めること(犬小屋で犬と一緒に寝たことなどの数ある冗談のような伝説は、その9割方は真実なのだそうだ)になったものの、レース活動はしっかりとやらせてもらえた。

1992年の富士フレッシュマンNA1600クラスでシリーズチャンピオンを獲得すると、翌年の鈴鹿フレッシュマンでも勝利を重ね、その後もN2スーパーシルビアで2年連続でのシリーズチャンピオン、当時のプロの登竜門だったミラージュインターでもチャンピオンを獲得するなど、織戸は誰の目にも明らかな快進撃と共に、その頭角を世に示していくのだった。

「それでも、心の中ではオレはプロにはなれないって、ずっと思っていたんだ。実際、あくまで走り屋上がりだった自分は、JTCCみたいな当時の花形のカテゴリーには乗れなかったしね。1997年に(SUPER GTの前身であるJGTCの)GT300でシリーズチャンピオンを獲ったときは『ここまできたか』という感覚もあったけれど、やっぱり自分がプロだとは思えなかった。フォーミュラ乗ってないとレーサーとしては本当の意味での上にはいけない……ってね。でも、その部分でも坂東さんははっきり言ってくれたんだよ、『お前はフォーミュラはやめておけ』って。そのときはそりゃ悔しかったけれど、いま思うと、あれもボクの本質を見抜いての言葉だったのかもしれないな」

YOKOHAMA / ADVANと織戸の「縁」には、どこか運命的なものを感じる。それは幼少の頃の憧れであり、社会に出て4輪レーサーを目指して門を叩いた坂東商会がYOKOHAMA / ADVANユーザーだったこともまた、その縁を強めたのだった。

走り屋上がりでもヒーローになれる。
それが織戸 学の美学である。

そんな織戸も30歳になり独り立ちをし、土屋エンジニアリングのスープラでハコの国内最高峰であるGT500にステップアップすることになった。しかし、それでも織戸の気持ちはまだ“プロ”には成りきれなかったのだという。ワークスチームとサテライトチームとの差がそこに明確に感じられたことに加え、「お前はまだまだプロじゃない」という、とあるレジェンドドライバーから言い放たれた言葉もまた、織戸のその想いを一層強めるものになっていたのだ。

「正直に言うと、この頃からレース以外の世界にも楽しいと思えることが現れはじめていたんだよ。雑誌やビデオの企画でいろいろと無茶もやって、それを見てくれているファンがさ、織戸 学という存在をある種のヒーローみたいに祭り上げてくれたんだ」

走り屋上がりでもヒーローになれる―――それは織戸 学という男の、ひとつの美学にも通じる答えだったのかもしれない。そしてその答えこそが、彼が単にレーシングドライバーという肩書に囚われることなく、またひとつ違った領域でのカリスマ性を発揮させるための原動力にもなっていた。

「SARDのワークス体制に移って2003年のオートポリスで優勝したときには、はじめて『オレもプロになれた』って思えたよね。それまでのコンプレックスみたいなものからはっきりと抜け出せた気がした。何より、なかなかGT500で勝てなかったYOKOHAMA / ADVANのタイヤで、それまで本当にたくさんの努力をしてきたスタッフと勝てたことが、ものすごく誇りに思えたんだ」

まだ子供だった頃に純粋な憧れを抱き、レーサーになりたいと夢見るきっかけとなった「ADVAN」で勝てたという喜びは、織戸にとって、確かに格別なものだったはずだ。最初にその背中を追いかけた土屋圭市も長らくYOKOHAMA / ADVANの契約ドライバーであったことや、自身をレースの世界へと引き上げてくれた坂東正明率いる坂東商会がずっとADVANユーザーだったこと(ちなみに、織戸が毎朝散歩させることが日課だった坂東家の愛犬グレートデンの名前も“アドバン”だった)にも、何か運命的なものを感じずにはいられない。

「だから2003年のシーズン終わりに、SARDがチームとしてタイヤを他社に切り替えるって話になったときは正直かなり葛藤したよ。プロのレーサーとして考えれば、ワークス体制のチームで、しかもより勝てる要素の多いパッケージになるわけだから、ふつうに考えたらそこから『降りる』という選択肢はない。でも、ボクは結局、ADVANを履く土屋エンジニアリングで再び走らせてもらう道を選んだ。なんて言うのかな、それが性に合っていたんだよ」

ある種の絶対的な強さが見出せる体制ではなく、あくまでそれを追いかける立場のほうが自分には似合っている――走り屋上がりのレーサーである織戸 学には、そうした、どこか常にビハインドな生き方のほうにこそ、心燃える何かがあったのかもしれない。

「和田孝夫さんや高橋健二さん、そして萩原 光さんのような、歴代の“ADVANドライバー”に共通するどこかひたむきな反骨精神のようなものを、自分も正統に受け継ぎたい」と、織戸はそのとき真剣に思ったのだという。

ボクはようやく、YOKOHAMA / ADVANドライバーの中でトップに立つことができたんだ。自分が子供の頃から憧れ続けた存在の、そのトップの位置にドライバーとして立てたことは本当に嬉しかったし、だからこそ、この先に一生をかけて、YOKOHAMA / ADVANと走り続けたいと心から思えたんだ」

(文中敬称略)

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織戸 学

1968年千葉県船橋市生まれ。ドリコンGP初代グランドチャンピオンを獲得後、1991年に富士フレッシュマンレースでデビュー。その後、全日本GT選手権(JGTC)/SUPER GT(GT300/GT500)、スーパー耐久、ル・マン24時間レース、NASCARウィンストンカップ(現スプリントカップ)、D1グランプリなど多種多様なカテゴリーに参戦。1997年(JGTC)と2009年(SUPER GT)にはGT300クラスでシリーズチャンピオン、2002年と2005年にはスーパー耐久でシリーズチャンピオンに輝いている。現在もSUPER GT / GT300クラス、スーパー耐久 / ST-Zクラスなどに参戦する傍ら、レーシングシミュレーターやパークトレーニングを通した“ドラテク向上”の指導活動にも積極的に取り組むほか、YOKOHAMA / ADVAN製品のチーフ開発ドライバーも務めている。

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