SPECIAL PRE-OPENING ARTICLE

織戸 学
Get Back ADVAN
憧れは、色あせない / 前編

2021.11.25

「ADVAN」という響きに憧れを抱くクルマ好きは多い。モータースポーツ直系のスポーツ・ラジアルタイヤのブランドとして、1978年の誕生以来、「ADVAN」は真のクルマ好きたちの「魂」を揺さぶり続けてきたのである。12月25日(土)にリニューアルオープンを迎える「ADVANブランドサイト」。そのプレオープニング版では、“ミスターADVAN”こと織戸 学に、「ADVANに憧れ続けてきた理由」を全3編(前編・中編・後編)に渡って熱く語ってもらう。「Get Back ADVAN」――そう、再び「ADVAN」の「魂」の真価を世に示すために――

Words:高田興平 / Ko-hey Takada(Takapro Inc.) Photography:田村 翔 / Sho Tamura

憧れは、色あせない / 前編

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「ADVAN」の世界観を通して
ボクは“格好良さ”の意味を知った。

「あ、これはJTCCのチェイサーだ。やっぱり赤と黒のレースマシンはオーラがある。JTCCには乗りたかったけれど、正直、あの頃のボクには手が届かなかった。自分じゃ乗れないって思っていた。オレはプロにはなれないって、本気で思っていたからね。だからこその憧れ。遠い存在。中でもADVANカラーはね、自分にとっての真の憧れだった」

東京都心からクルマで1時間ほど。工業団地の一角に佇む倉庫の中に足を踏み入れると、仄暗いその空間の奥には、赤と黒の“ADVANカラー”を纏ったレースマシンたちが静かに眠っていた。スチール製のパイプで3段に組み上げられた特製の巨大なラックには、まるで原寸大のモデルカーのように、JTCCやグループA、F2にF3000、そしてグラチャンなどを走った歴戦のADVANマシンたちが収められている。

高橋国光、高橋健二、和田孝夫――マシンに残された往年の“ADVANドライバー”たちの名前もまた、その芯の部分に熱き魂のこもった血脈として、静かにこちらへと語りかけてくるのだった。

ともあれ、それはまさに圧巻の光景である。目の前に現れた、その圧倒的なまでの“ADVANカラーの連なり”を見つめる男の眼差しには、まるで少年のような、真っ直ぐで純粋な“何か”が見て取れた。

織戸 学――1968年生まれの52歳。さまざまなレースカテゴリーでYOKOHAMA/ADVANと共に走り続けてきたレーサーとしてのキャリアはすでに大ベテランの域に達し、長らくADVANブランドのタイヤ製品開発の牽引役も担ってきたこの男の目には、「ADVAN」という存在は果たしていまも色褪せることなく、真の憧れとして映り続けているのだろうか――

織戸がまだ若手ドライバーだった頃に強い憧れを抱いたという、JTCC(全日本ツーリングカー選手権)を戦ったTOYOTA ADVAN CHASER。土屋圭市や土屋武士がドライブしたマシンが、歴戦のADVANマシンと共に静かに眠っていた。

「ボクがADVANを意識したのは小学校の低学年のとき。大きくなったらプロの4輪レーサーになりたいって思いはじめた頃の話だね。当時のテレビでは週末にF2とかのレース中継を地上波でもやっていたし、何よりその合間に流れるコマーシャルの格好良さにヤラれてしまった。
煙草ブランドのコマーシャルも格好良かったけれど、ステファン・ヨハンソンなんかが出てくるADVANのやつにはさ、まだ無垢な子供の魂までをグッと掴むような、特別な何かがあった。まさに『格好良いとはこういうことだ!』って、子供心にガツンと教えられた気がするね」

千葉県の農家に生まれた織戸 学は、“格好良さ”に対して敏感な少年だった。野球少年でもあった彼は、「野球のセンス自体はいまいちだった」と笑うが、そもそもセンスやプレーがどうこうよりも、テレビを通じてその存在を知った永久不滅の大スター、長嶋茂雄の格好良さに幼いながらに惹き寄せられて、自ら野球をはじめるようになったのだという。

「子供心に王 貞治さんの選手としてのすごさも感じていたけれど、真のスターだけが放てるオーラという意味では、やはり長嶋さんがズバ抜けていた。ボクはとにかくスター性のある人やものごとに不思議と心を奪われてしまう子供だったから、王さんみたいにストイックに野球が上手くなりたいっていうよりも、天性のスターである長嶋さんみたいになりたいと思ったんだ」

そんな子供だったからこそ、小学校の低学年で将来はレーサーになりたいとの想いをその胸に明確に抱くようになってからもまた、織戸は当時のレース界において抜きん出たスター性を放っていた星野一義や松本恵二の姿に、自然と心奪われていく。

「レースで走る姿はもちろんだけれど、煙草のコマーシャルで見せる星野さんや恵二さんの男臭い仕草や表情に、ボクは真っ直ぐに惹かれたんだ。その頃から、自分にとってのヒーロー像には、ある種の不良性みたいなものを求めていたのかもしれないな」

GC、F2、F3000、そしてグループC(JSPC)と、日本のモータースポーツにおけるトップカテゴリーを常に戦ってきた赤と黒のマシンたち。その姿に強烈な憧れを抱き、少年期の織戸 学は「レーサーになる」という想いを心に抱いたのだという。

“操る”ことの楽しさには
まず、2輪から目覚めたんだ。

野球少年だった織戸はまた、自転車少年でもあった。欲しかったモトクロッサータイプの自転車を買ってもらえなかった学少年は、家にあったママチャリの部品という部品を自らの手で引っ剥がして、農家だった実家の庭や裏山を駆け回る日々を過ごしていたのである。

好きなことにはとことん夢中になる――そんな、現在にまで通じる織戸 学の真っ直ぐな生き方の根本は、この頃から徐々に醸成されはじめたのかもしれない。

「小学5年になる頃には6つ歳の離れた兄貴の50ccのモトクロスバイクを借りて、裏山に自分でトライアルのコースを作って走り回るようになった。そのおかげでスピードやタイヤのグリップ感覚には早くからずいぶんと慣れることができたし、2輪を操る面白さにも目覚めることができたよね。
当然、16歳になったらすぐ2輪の免許は取ったけど、当時は“3ない運動”というのがあったから高校生が大っぴらには2輪には乗れない時代で、両親と暮らす実家にも2輪を置けなかったから、こっそりガンマを手に入れて乗り回していたよ」

当時はまだ暴走族が全盛とされていた時代だったが、群れるのは性に合わないからと、織戸はなんとひとりで千葉から首都高にまで走りに行っていたのだという。漫画「あいつとララバイ」に影響された彼は、「オレの青い鳥はどこだ?!」と本気で漫画の世界の中に描かれたヒーローの姿を追い求めながら、独り、夜な夜な疾走を続けたのだった。

「はっきり言って馬鹿だよね。褒められた話でもない。でも、そういう時代でもあったよね。同時に、自分の中のヒーロー願望も留まることなく膨らんでいった。映画『汚れた英雄』で知った平 忠彦さんに憧れて、バイクに跨がるときには主人公の真似をして常に必要以上にサッと片足上げたりしてね(笑)頑なに信じてたんだよね、ヒーローはいるし、自分もなれるって」

気づけば、幼少の頃に抱いた4輪のレーサーになるという想いは、2輪のそれへと転じていた。そして高校を卒業し自動車整備の専門学校に入る頃になると、少しずつ現実にも目を向けながら、織戸の視野はさらにその先へと広がっていく。

「ライバルって言うのかな、自分よりセンスがあって『すごい』って素直に思える同世代の連中が現れ出したんだよ。それまではひとりでばかり走っていたからよくわからなかったけれど、比べる相手が現れると、さらに2輪の世界にのめり込んだ。
バイクでたくさん走るために、働いて燃料代や部品代を稼ぐことを覚えたのもこのタイミングだったね。でも、峠を死ぬ気で攻めてサーキットだってかじったけれど、そうやってどんどんのめり込むほどに、どこかで自分の2輪のセンスに限界を感じはじめてもいたんだ」

2輪を通して“走ること”“操ること”の楽しさに目覚めた織戸は、ある衝撃的な映像との出会いを通して、再び4輪の世界へとその“想い”を強めていくことになる。

“ドリフト”との衝撃的な出会いが
ボクの未来を、その先へと加速させてくれた。

2輪にのめり込みながらも、働くことを覚えて普通免許を取りクルマも買える(最初のクルマはサーフボードを屋根に積んだ31のフェアレディZだった)ようになった織戸は、人生の大きな転機とも呼ぶべき世界に出会うことになる。専門学校の教室のテレビモニターに映し出されたある映像を見た瞬間、「バチっ!」と自分の中のスイッチが入ったのだという。

「昼休みに仲間たちが観ていたのは土屋圭市さんのドリフトのビデオだった。碓氷峠をAE86でドリフトしていく映像。あれは衝撃的だったね。カウンターステアの意味くらいは多少なりにも理解はしていたけれど、モニターに映し出されるその世界は明らかに別次元でさ、何よりとびきり刺激的だった」

織戸はすぐさまZを手放し、AE86を手に入れた。そして自分でLSDを組み込むと、当時の地元の走り屋たちの聖地でありパラダイスでもあった通称“バシコウ”まで、ドリフトの練習に出かけて行くのだった。

「いきなり事故ったよ(笑)そりゃもうショックだったけれどその分気づかされるものも大きかったよね。もっときちんとテクニックを磨く必要があるって、心と懐の痛みを通して悟らされた。ジムカーナをやっている仲間が街中をKP61(スターレット)でスピンターンしている姿を見て衝撃を受けたのも、ちょうどその頃だったな。そこから1年くらい、真剣にジムカーナをやったよね」

こうして4輪の世界に向かって再び織戸の強く、そして熱い想いは戻っていく。憧れのヒーローは平 忠彦から、より明確な目標として“ドリキン”こと土屋圭市へと変わり、その土屋が審査委員長を努めていた雑誌「CAR BOY」主催のドリフトコンテストへの出場をきっかけに、織戸 学の未来はまたその先へと加速していくのだった。

(文中敬称略)

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織戸 学

1968年千葉県船橋市生まれ。ドリコンGP初代グランドチャンピオンを獲得後、1991年に富士フレッシュマンレースでデビュー。その後、全日本GT選手権(JGTC)/SUPER GT(GT300/GT500)、スーパー耐久、ル・マン24時間レース、NASCARウィンストンカップ(現スプリントカップ)、D1グランプリなど多種多様なカテゴリーに参戦。1997年(JGTC)と2009年(SUPER GT)にはGT300クラスでシリーズチャンピオン、2002年と2005年にはスーパー耐久でシリーズチャンピオンに輝いている。現在もSUPER GT / GT300クラス、スーパー耐久 / ST-Zクラスなどに参戦する傍ら、レーシングシミュレーターやパークトレーニングを通した“ドラテク向上”の指導活動にも積極的に取り組むほか、YOKOHAMA / ADVAN製品のチーフ開発ドライバーも務めている。

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