Toshi Arai × Hiroki Arai (2)

世界のラリーシーンで幾多の活躍を見せてきた新井敏弘選手、そして今まさに世界へ羽ばたこうと翼を拡げている新井大輝選手。この注目を集めている親子ラリードライバー、初めて実現した揃っての対談インタビューシリーズ第2回。このページではまず、前回ご紹介した大輝選手のラリーデビューイヤーである2013年について、もう少し詳しく振り返ります。


フザケンな、って怒りましたね – 新井敏弘 選手

2013年の全日本ラリー選手権、第2戦は愛媛県で開催された「久万高原ラリー」。これが若葉マークも初々しいGC8型スバル・インプレッサを駆っての、大輝選手の全日本デビュー戦となった。規則により運転免許取得1年未満は選手権出場が出来ないため、オープンクラスで参戦してクラス優勝を飾った。この一戦について、大輝選手は次のように振り返る。

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新井大輝選手「久万高原のときは、ただただラリーを走れることが楽しいだけでした」

前回、久万高原への大輝選手参戦について、ラリードライバーとしてのセンスを検証してみたかったからと語った、新井敏弘選手。大輝選手にとっては父であると同時に、ラリードライバーとしては大先輩となる敏弘選手だが、大輝選手を厳しい眼差しで見ていた。

新井敏弘選手「最初は『楽しかった』でいいんですよ。19歳や20歳のやつが、ラリーが自分に向いているかどうかなんて簡単に判断出来るわけがないですから。そこは私が判断出来るポイントで、もし向いていないと判断したら、あとは自分でやりたければサポートも何もしないから勝手にやれよ、と。親である自分や、いろいろな企業がサポートするだけのものなのかどうか、そこの判断をしたんです」

大輝選手「親父もまさかその2年後に、洞爺のSS(スペシャルステージ)で僕にブッチ切られるとは思っていなかったんでしょうね(笑)」

大輝選手らしい(?)憎まれ口も飛び出したが、久万高原に続いて参戦した第3戦「ARKラリー洞爺」では、Day1でコースオフを喫してリタイアとなった。

敏弘選手「あの時は、朝方になってコ・ドライバーをリタイア現場に残して大輝が一人で帰って来た。だから『落っこちて、自分だけ帰ってくるなんてフザケンな』って怒りましたね。精神論の部分があるかもしれませんが、こいつ自身が一所懸命にやらなければ周りで支えているメカニックやスタッフも頑張れないですよね。そこが大輝に一番足りないところだから、ガッツリと怒ったんです。私も色々な人に助けられて、これまでラリーをやって来ています。そういうチームとしての動きや自分のやるべきこと、それが経験も無いから分かっていないんですよ。だから理解させるために、特に強く言っているんです」

大輝選手「親父からは『メカニックに迷惑をかけるな、仕事を増やすな』と、いつも強く言われています。とにかく車を壊すな、ということが、親父から教わったことの90%という感じですね。

洞爺のリタイアから、敏弘選手の“カミナリ”を受けた大輝選手。2013年は全日本戦は5大会に出場し、3回の優勝と2回のリタイアという結果を残した。マシンはRALLY HOKKAIDOからGRB型のスバル・WRX STIにスイッチされ、APRC(FIAアジア・パシフィック・ラリー選手権)枠で出場した同大会はリタイアとなったが、第8戦のハイランドマスターズ、第9戦の新城ラリーと全日本の終盤2戦でオープンクラス優勝を飾った。



ラリードライバーとして生きていこうと思ったのは…… – 新井大輝 選手

年が変わって2014年、敏弘選手は十数年ぶりの全日本戦本格復帰を果たした一方、大輝選手は前半戦で0カードライバーをつとめるなどして、選手としては9月のRALLY HOKKAIDOと全日本の終盤2戦に出場。しかし、その前に大学の夏休みを活用して貯金を使ってオーストリアへと武者修行に出掛け、国内選手権にも2大会に出場した。

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大輝選手「オーストリアに行ったことは、とてもプラスになった経験でした。国内選手権に2戦出場したのですが、親父のコ・ドライバーもつとめたグレン・マクニール選手に組んでもらって。1戦目で車を壊してリタイアしたのですが、それをストールレーシングのメカニックと1ヶ月かけて直して2戦目に参戦してクラス6位で完走しました。壊すのは本当に一瞬の出来事ですが、それを直すことの大変さが身に沁みて理解できました。ストールレーシングで、本当の意味での“チームとは何か”を学びました。夏の間チームの人と一緒にいて、家族のような関係になりましたね。だから次のラリーで良い成績をおさめるのはもちろん、車を壊さないで返さなければという思いを強くしましたね」

敏弘選手「こいつはバカだから、オーストリアに行ったところで何も変わっていないでしょ(笑)。ただ、私が言いたかったことを、ストールレーシングで理解したんじゃないかな、とは思います。とりあえず2014年は、こいつにお金のかかった一年でしたよ(苦笑)」

敏弘選手らしい辛口な“大輝選手評”であるが、このオーストリア武者修行が大輝選手にとって大きな経験値のひとつになったことは間違いない。

大輝選手「オーストリアから帰って来た頃から、ラリードライバーとして生きていこうという思いを持つようになりました。その思いは帰国して最初の国内参戦となった2014年のRALLY HOKKAIDOで確固たるものになりましたね。別にプロとしてなんていう大それた話ではなくて、アルバイトしながらでもラリーを続けていこう、と。人生の中で、ラリーが優先順位の1位になった感じですね」

ラリーへの思いを新たにした大輝選手。それによって、何か大きく変わったことはあったのだろうか。

大輝選手「やっていることそのものは、運転免許を取って車で走り始めた頃と今で何も変わっていません。ラリードライバーとしてやっていこう、と思ったからといって特に何か付け加えたことは無くて、時間があれば走りに行ったり車をメンテナンスしているのは変わりません。あえて言えば、体重のコントロールに気を使うようになったくらいですね」

敏弘選手「基本的に車の運転が好きなんだから、スタンスは変わらないと思いますよ。それは私の若いころも同じでした。走るのが好き、速くなりたい、だから練習する、というのは何か理由があってやっているわけじゃないんです。将来的にWRC(FIA世界ラリー選手権)に出場したいからとかではなくて、純粋に自分が上手くなりたい、速くなりたいという根本的なところなんです。あくまでも基本は“好き”、そうでなければラリーは出来ないでしょうね」

大輝選手にとって大きな転機となった2014年。敏弘選手も本格的な全日本復帰を果たしたこの年、親子揃ってJN6クラスに参戦した全日本選手権の終盤3戦では大いに注目を集めた。そんな中でRALLY HOKKAIDOをクラス5位、ハイランドマスターズは表彰台にあと一歩と迫るクラス4位という成績を残す。しかし最終戦の新城ラリー、ここでまた敏弘選手から大輝選手に“特大のカミナリ”が落とされることになる。

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