Toshi Arai × Hiroki Arai (1)

P-WRC(FIAプロダクションカー世界ラリー選手権)やIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)など世界の舞台、そして2015年の全日本ラリー選手権では久しぶりに国内チャンピオンと、多くの栄冠を手中におさめてきた新井敏弘選手。その息子である大輝(ひろき)選手は、2015年からGAZOO Racingの育成プログラムに参加し、フィンランドやラトビアといった海外ラリーで経験を積んで世界を目指している。この注目の親子、今回はお二人揃っての直接対談が実現した。ラリーへの思い、ラリードライバーとして、そして親子として互いをどう見ているかなど、本音トークで新井親子が語る。


自分も車好きだったけれど、息子はそれ以上だった – 新井敏弘 選手

ラリー界で注目を集める新井親子。P-WRCの世界タイトルを獲得した父・敏弘選手と、そして世界へ羽ばたこうとしている息子・大輝選手。まずは敏弘選手に、ラリーとの出会いや始めた経緯をお聞きしてみよう。

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新井敏弘選手「子供の頃から車好きで、モータースポーツ専門誌なんかも読んでいましたね。当時はAE86(トヨタ・カローラレビン/スプリンタートレノ)の全盛期で、自分も運転免許を取ったらAE86に乗りたいと思っていました。ラリーは大学に入ってから始めましたが、それまでは野球ばかりやっていて。同じモータースポーツでも、ラリーならばレースと違って普通の車を使うから始めやすいですしね。なにより自分が生まれ育った群馬県は“ラリー銀座”と言われるほどラリーが盛んな地ですし、サーキットまでいくのに何時間もかかる一方で、30分も走ればラリーで使われているステージがたくさんあるのですから、ラリーを始めたのは必然的なことだったかもしれません」

では、一方で息子の大輝選手はどうだったのだろうか。

敏弘選手「こいつ(大輝選手)も、車好きでしたね。祖父さん(敏弘選手のお父さん)も『大輝は、お前(敏弘選手)が子供の頃と比べても、遥かに車好きだ』って言っているくらいですから。だから運転免許を取る前に、クローズドコースで運転もしていましたしね」

新井大輝選手「車は好きで、19歳で運転免許を取りました。でも、速く走りたいというよりも、車を運転してどこかに行きたいという思いの方が強かったですね。速い遅いはあまり気にしていなくて、思うように車をコントロールすることが楽しかったんです」

親子の共通項、そのキーワードのひとつはやはり“車が好き”ということだった。大輝選手は1993年生まれ、WRC(FIA世界ラリー選手権)を戦うためにイギリスを本拠とした父・敏弘選手とともに、幼少期をイギリスで過ごした。

大輝選手「自分が小学生の頃、親父は世界のラリーを戦っていました。それを間近に見ていましたけれど、自分自身でラリーをやってみたいという興味は、まだありませんでしたね」

敏弘選手「こいつをWRCの会場に連れて行っても、駆け抜けていくWRCマシンにはそれほど興味を示していませんでした。それよりも手に持ったミニカーで『ブーン、ブーン』って遊んでいるばかりで(笑)」

大輝選手「小学校2~4年生くらいのころ、親父はラリードライバーでこんな道を走っているんだな、ということは分かっていても、自分が同じことをやろうという思いは芽生えませんでした。それは19歳で運転免許を取った時も同じで。ただ、免許を取ってから自分で軽トラックを運転して、スポーツカーを駆る人たちよりも速く走れたことは、ひとつ目覚めるきっかけになったかもしれません。でも、やはり当時は運転出来ること、それが純粋に楽しいだけでしたね」

PROFILE

新井敏弘 選手 =Toshihiro Arai=

1966年、群馬県出身。

群馬大学在学中の1984年にラリー活動を開始。1992年に全日本選手権のBクラス、1997年には最高峰のCクラスでチャンピオンを獲得。その後は海外ラリーに活動の中心を移し、WRC(FIA世界ラリー選手権)に参戦。1999年のチャイナラリーでWRCのグループNで初優勝、2005年と2007年にはプロダクションカー部門でチャンピオンに輝く。

また、2011年からはヨコハマタイヤを装着するマシンでIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)に参戦、同年のプロダクションカップを制した。2014年からは全日本選手権に本格復帰、2015年は最高峰のJN6で18年ぶりのチャンピオンを獲得した。

新井大輝 選手 =Hiroki Arai=

1993年、群馬県出身。

2013年4月のJMRC関東群馬ラリーシリーズ開幕戦でラリーデビュー。その翌週には愛媛県で開催された大会で全日本選手権にデビュー、オープンクラスで優勝を飾った。子供のころから父・敏弘選手のドライビングを全身で感じ取ってきたこともあり、“速さのDNA”を確実に受け継いでいるラリー界のサラブレッド。敏弘選手がWRC参戦のためにイギリスに居を構えていたことから幼少期を英語環境で過ごしたため、英会話も堪能で海外チームとのコミュニケーション能力も高い。

2015年の後半からはGAZOO Racingの若手育成プログラムに選ばれた。一方で現役の大学生でもあり、ラリーと学業で多忙な日々を過ごしている。



全日本初参戦は、それほど意識していなかった – 新井大輝 選手

大学生となり運転免許を取得した新井大輝選手。2013年4月に開催されたJMRC関東の群馬ラリーシリーズ開幕戦で、公認競技会デビューする流れとなった。主催関係者から敏弘選手に「息子さんも出さないか」と誘いがあったから出場する運びとなったそうだが、既にこの時点で5月に開催される全日本選手権の第2戦・久万高原ラリーに大輝選手が出場することは決まっていたという。

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敏弘選手「久万高原には自分がゼロカーで走ることになっていたのですが、あわせて大輝を出そうという話にもなりました」

大輝選手「群馬県戦にはジャーナリストの人からも『ラリーに出ないの?』と言われていたこともあって、それなら出てみようかなという軽い感じで出場しました。その後の久万高原も親父が何か話をしているな、程度の認識でそんなに意識はしていなかったんです。でも、出られるものなら全日本選手権にも出てみたいとは思っていました」

敏弘選手「より上を目指すなら、やはり全日本を走った方がいいんですよ。だからグラベル(非舗装路)ラリーの久万高原に出場させてもいいかな、と。あれがターマック(舗装路)だったら出していませんね。さらに私がゼロカーで走るからマシンを積載車で持って行ったのですが、2台積みだからもう1台持って行けるし。要するに、そんなにお金もかからないから出してみようかと。これが大輝を走らせるのに50万円とか100万円かかるというのなら、出場させていませんよ(笑)」

大輝選手の公認競技会デビューとなった群馬シリーズの「カーボンオフセットラリー2013」はリタイアに終わった。そして同じGC8型スバル・インプレッサWRXで出場した全日本選手権の「久万高原ラリー2013」。こちらはオープンクラスで参戦、無事に完走を果たしてOPEN2クラス優勝となった。

敏弘選手「大輝にラリードライバーのセンスがあるのかどうかなんて、全くわかりませんでした。でも、ある程度走ることが出来るのは知っていたので、取り敢えず出場させてどんなものかを見てみようかと思って出したのが久万高原。競技に出してみないとわからないこともあったし、経験を積ませて自分が速いのかどうかや、何が足りないのかを自覚させてみたかったんですよ。若手は他にもいますが、赤の他人にお金を使ってもどうなるかわからないところもありますけれど、自分の息子だったら血が繋がっているから続けさせることは出来る。親子という“絶対的主従関係”が結ばれているんですからね(笑)」

さらに敏弘選手は、大輝選手を久万高原に出場させたことの意味を、自分の若いころのことと比べながら語った。

敏弘選手「自分が19歳とかでラリーに参戦したころは、免許取得後3年は全日本選手権に出られないという規則がありました。しかし今はオープンクラスに出場出来るので、大輝は早めに全日本を経験してその中で揉まれてみるのがいいだろう、と。実際のところ大輝がラリードライバーになるのかどうかは未知数でしたが、いずれにしても判断して結論を出すのなら早い方がいいと思ったんです」

こうして初心者マークをつけたマシンで、全日本戦にデビューした新井大輝選手。2013年の第2戦・久万高原をOPEN2クラス優勝、しかし続く第3戦・洞爺はリタイア。ブランクをはさみ9月のRALLY HOKKAIDOからはGRB型のWRX・STIで参戦、同大会はリタイアしたものの、第8戦・ハイランドと第9戦・新城はともにOPEN2クラス優勝を飾った。

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